やすりと味噌 切れぬ縁

日本経済新聞の14/1/18号の文化のページに鑢ついての参考になる記事が載っていましたので転載しました。

焼き入れ工程に興味、歴史をまとめる  刈山 信行

中学生のころ、隣町の仁方(にがた=広島県呉市)に住む友人を訪ねると、近所から味噌(みそ)の焼ける香ばしいにおいが漂ってきた。問いただすと、やすりに昧噌を塗ってあぶっているという。工業製品のやすりと食品の昧噌。この妙な取り合せわせが、やすりへの興昧の始まりだった。
後年、呉工業試験場(現広島県立西部工業技術センター)に就職した。配属先は地場産業のやすりと縫い 針にかかわる部門だった。
やすりへの関心はますます強くなり、いつか、やすりの歴史をまとめたいと思うようになった。
やすりに関する新聞や雑誌の記事を片っ端から切り抜き、産業史関係の研究会にも所属した。これはもう、仕事というより趣昧の領域だ。九三年に「やすり読本」の初版を自費出版。それから八年を経て、昨年秋、改訂版を刊行した。書き残したことが多かったし、この間に大きな発見もあったからだ。

   □□

8世紀のやすり出土

最大の発見は最も古いやすりが発掘されたことだろう。一九九七年、奈良県明日香村にある飛馬池遺跡から、鉄くぎや鉄かすとともに出土した。この遺跡は七世紀中ころから八世紀初めのもので、日本最古の鋳造貨幣とされる「富本銭」(ふほんせんの)仕上げに使用したのではないかといわれている。
やすりは掘り出されたとしても、やすり目が朽ち果てて確認できなければ、やりがんななど他の鉄器と区別することが難しい。私も、発見の報を聞いて奈良まで足を運んだ。
海外を見渡しても、やすりの歴史は古い。ギリシャのクレタ島では、紀元前二〇〇〇年ごろに作られた青銅製のやすりが見つかっている。種類も、断面の形状の違いや寸法の大小、やすり目の形や目の数などで分類すると、五百種類以上になる。
現在、材料は圧延材を使っているが、明治二十年(一八八七年)ごろまでは、砂鉄を原料とする玉鋼を使っていた。玉鋼は日本刀の材料で、高級品だと思われるが、刀に使われるのは優良品。やや質の劣る良品がやすりの材料になっていた。
以前、昔のやすり作りを再現するため、玉鋼でやすりを試作したことがあるが、その時は、日本刀用の極上の玉鋼を使わせてもらった。

   □□

味噌に冷却促進効果

やすりの製造工程で最も特徴のある昧噌付けについて説明しよう。目立ての後、焼き入れする前に味噌をつけるのだが、やすりにとって味噌は必要不可欠、切っても切れない仲といえる。
昧噌の効用の一つは、完全な焼き入れが容易になることだ。焼き入れでは、七百八十度に熱したやすりを二十度の水に人れるのだが、やすりの表面に冷却を妨げる水蒸気膜が付着するのを昧噌が防いでくれる。
また、V字形の溝になったやすり目から焼き割れが生じるのを防ぐ作用もある。一一九六〇年代初めごろまでは、やすりメーカーが自家製の昧噌を作って使用していた。味噌の調合についてはメーカーごとに異なり、企業秘密だった。
職人に話を聞くと、昧噌は古ければ古いほど良いと言う人もいれば、新しければ新しいほど良いと言う人もいる。塩気や色についてもまちまちで、百家争鳴。ただし、実験してみたところ、昧噌の色や昧、鮮度の違いは、焼き人れの効果には無関係だと分かった。

   □□

電動工具普及で苦戦

仁方やすりの起源については諸説あるが、江戸時代に大阪から伝わったようだ。呉海軍工廠の設置や、機械金属製造業の発展などを受け、大正末ごろから鉄工やすりや組やすりの製造も始まり、仁方のやすり産業は大きく飛躍する。
ライバルとの熾烈(しれつ)な競争もあった。新潟県燕市の新潟やすりだ。明治四十年ごろ、新潟やすりは全国シェアの八割を占めていた。しかし、第一次世界大戦の好況で、作れば売れるという状況になり、品質が安定しなくなる。同盟罷工(ストライキ)も繰り返され、顧客離れを招いた。
新潟やすりの落ち込みとは反対に、仁方やすりは着実に力をつけていった。その一翼を担ったのが、新発明の数々だ。明治四十一年から四十三年ごろにかけて、従来、手切りで目立てしていた工程が、手動式ながら機械化された。ミシンにヒントを得たもので、一日当たりの生産量は、手切り時代の二十本から、百二十本へと急増した。
現在、広島県呉市仁方地区はやすり生産の全国シエア九五%を誇る。しかし、やすりに代わる電動工具やダイヤモンド工具が普及し、やすりの生産量は年々減少。やすり市場の見通しは明るくない。職人の高齢化も進んでいる。
それだけに、やすりのことを少しでも多くの人に知ってもらいたい。その思いは年々強くなるばかりだ。(かりやま・のぶゆき=広島県立西部工業技術センター総括研究員)


ホームページへ

inserted by FC2 system