安来刃物まつりと削ろう会 全国16産地から19業者が出店 ハガネは製品となり里帰り

この記事は、日本刃物工具新聞(13/11/20号)より転載しました。

 出雲地方の鉄の文化圏で和られた″やすぎ″(注:市の名前は「やすぎ」と「ぎ」になるそうです)は、日本に於ける鉄の故郷(ふるさと)でもある。コンピューター部品から家庭の庖丁まで、その素材のヤスキハガネは、日本各地はいうに及ばず世界に供給されている。こうした素材は各地の鍛冶屋さんによって加工され、生まれ変わった姿での里帰りだ。”第六回やすぎ刃物まつり”が十一月二〜四日の三日間″第十回全国削ろう会(十一月三、四日)”と併時開催で盛大に行われた。 江戸時代、安来は周辺山間部の″たたら″で生産された鋼や鉄の積み出し港として繁栄した。明治時代になると、近代製鉄法の普及によって″たたら製鉄″は衰退期を迎えるが、良質な原料と伝統的な技術に、さらに改良がなされ、優れた鋼の生産地へと生まれ変わり、今日に至っている。
世界的には著名なハガネ生産の町だが、残念なことには鍛冶屋さんが一軒もない町。だから鞄、鑿(のみ)、庖丁、ナイフ等の製品は余り見られない町しかし、この″安来刃物まつり″を契機に、各地へ送られた原料は製品に生まれ変わって安来の町へ里帰りする。そういうイメージを協力して実現した機会。それがこの遥まつり山のことの始まりだそうだ。会場となった和鋼博物館大駐車場には、全国十六カ所の刃物産地から十九業者が出店し、鉄の道文化園特産品などなど展示即売も。刀鍛冶鍛錬実演では横田町の刀匠が、メめ縄張りで浄めた中、真っ赤な玉鋼が刀になっていく様子を披露。大勢の見学者達は目を輝かせて見入っていた。

 まつり初日の十一月二日には、和鋼博物館内映像ホールに於いて″刃物鋼シンポジウム″が午後一時三十分〜午後五時の間行われている。基調講漁では尾上高熱工業社長、尾上卓生氏(七十歳)が講師に。″二十一世紀′刃物とハガネ、温故知新〜人と鉄の歩いて来た道〜″を演題として、明治以降、多くの学者達が日本の鉄と鋼の情報を世界へ発信してきた過程を振り返った。ここ出雲の地もその本拠地のひとつ。現在は鉄鋼生産総量の僅か一%以下の生産比率しかないが、数多い現代の刃物鋼の中でも、安来は品質でトップを走る状況にあり、常に追われる立場にあるのが現状といいえる。技術者の世代交代も進み、大変払苦労重ねながら「″古ぎに頼らず、新しきに溺れず″との大切な言葉を忘れないで欲しい」と講演を地雷括った。パネル討論は樺キ尾庖丁製作所社長、長尾太氏(六十四歳 )、虚嵩c刃物工場代表取締役武田松水氏(四十三歳)、日立安来工場副工工場長、八十致雄氏(五十六歳)の二名をパネラーとし、コ−デイネギには和鋼博物館、奥野利夫を迎え、活発な討論がなされた。

長尾氏は「日本は戦後五十年供出してしまい、鉄もない、道具もない終戦からいち早く復興し、今日はでは世界第二位の経済大国へと成長ね発展を遂げた。その中でも私達の生活と関係が深い刃物鋼、伝統文化としてさらに発展させていくように努力したい」と鋼に賭ける情熱を力強く語った。
武田氏は「売り易い刃物と使い易い刃物は、必ずしも同じではない。私は″最新″の製造技術でなく、常に″最高″の製造技術を追求する。使って喜ばれる刃物造り、新しいデザインを考えるだけでなく、今あるデザインを磨きあげる事が重要」と持論を展開。和やかな雰囲気に終始しながら、意義ある刃物鋼シンポジウムも盛会だった。
 あいにく雨天の三日問ではあったが、町の人達は「オラが町で造った鋼が、全国の鍛冶屋さんの手に掛かり、立派な道具となり、こうして里帰りして皆に喜ばれている」等々、満足感を伺わせる声も‥…。約九千六百人の来場者は、一流の職人さん達の技が光る刃物類に魅了されていた。
 四日には″鉄は千年のいのち″で世間に知られ、伝統の和釘へ挑む四国鍛冶、白鷹幸伯氏とナイフディーラー岡安一男氏のトークショーが、イベントステージに於いて行われ人気を呼んだ。豊富なうんちくを傾けるご両人。″千年の風雪に耐える鋼″を楽しく、分かり易く、思う存分語ってくれた。

削ろう会

700名にも昇る参加者
 優れた削りへ執念
 大工の眼を養える

 鋼(はがね)の町″安来にて″第十回削ろう会″が盛大に行われた。
 今回、十一月三日〜四日の削ろう会会場は、島根県安来市安来町、日立金属保健組合、安来体育館(通称:日立体育館)。合同でおこなられた”安来刃物まつり”会場からは、徒歩十八分の距離にある。
 当日の削ろう会参加者はザッと七百人。懇親会及び宿泊者は約二百十名あった。参加者メンバーは、勿論大工さんが一番多いのはいうまでもないが、異業種の人もかなり参加していた。例えば道具鍛冶、刃物好きの大学教授から道具の問屋、鉄の好きな人達だ。
刃物の中では″鉋″が一番手が掛かり、複雑で奥が深い道具であるがために、薄い削り屑がでると喜びもひとしお如何に薄い削り華(削り屑のこと‥永六輔氏命名)を出すかという一点に賭けて、日頃磨いた腕を凝縮させた戦いの場が″削ろう会″といえる。参加しない大工さんの一部は「材木の表面が如何に美しく仕上がるかが仕事上大切なのであって、削りの屑が薄いとか厚いとかを問題にすることは可笑しなこと」と一笑に付する。だが、参加した人達は、誰にも負けない薄い削り屑を出すからには、道具を選ぶ眼を養い、鉋刃を求め、砥石を求め、研ぎの技術を養い、台直し(だいならし)など、全で 初やなにる」ヤル気は満々だった。
 鉋の使い手の中でも卓越した人は、仕事への熱意、建物に対する愛情を育むために、三ミクロンの薄い削り華を命懸けで目指していた。

玉鋼への想い熱く
日刀保たたら村下(むらげ)木原さんも講師に

三日、削ろう会初日午後三時十五分より会場で、映像を”たらに生きる”も放映され、科学機器の発達による近代的生産技術全盛の時代に入っても、古来からの砂鉄原料と木炭を 利用する”低温直接還元法”は、現代にあっても鉄の原器を生む方法として、新しい鉄や鋼を研究する上で、大切な要素となることが再認識された。
 次いで行われた記念講演の演題は”玉鋼づくりの技と精神”。木原明氏(六十四歳)が講師に招かれていた。
氏は国選定保存技術保持者で日刀保たたら村下(むらげ)。たたら操業は炉から吹き上げる炎の色で、炭や風の量を決め、その色を読みながら三日三晩、約八十時間、不眠不休の作業となること、それがため使命感、根性、体力、技術が人一倍要求されること、氏自身は体力を養い精神を鍛えるために十五年間、毎朝上半身裸で吹雪の中でも休まず走り続けたことなどを説明した。聴衆からは、鋼ような精神力を語る力強い記念講演と評判を得ていた。

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