和鋼風土記


1971年のことです。
三条金物青年会の主催で、和鋼風土記という映画を観賞して、岩崎重義さんから解説して戴く催しがありました。
当時、私も参加して映画を観て、岩崎さんの解説を聞き、大変感銘を受けたものです。
古い記録を整理していたら、その時の感想文を金物組合の機関紙に投稿したものが、確か、金物新聞社が転載したもののコピーが見つかりましたので、次にご紹介します。
ただ、明らかに間違っていた個所と誤字脱字については、この度、訂正しましたので、お断りしておきます。

岩波映画から「和鋼風土記」という映画が創られた。
これは「たたら製鉄法」の威厳をドキュメンタリーに迫ったもので、日本鉄鋼協会か総額5500万円をかけて昨年11月に成功した「たたら製鉄」再現の記録である。25年も前に、歴史をとじた和鋼が、80歳以上の本職の手で生産されるのを見ると歴史の重さに感動せずにはいられない。

幻の製鉄法を再現
日本に近代製鉄法が渡来する以前は全ての鉄、鋼を「たたら製鉄法」で作っていたが、この労力や能率を考えず、ただ、品質だけを追及した製法は現在の近代製鉄法万能の時代では、あまりにも非経済的なため、行われることがあり得ない現況だった。この「たたら製鉄法」について、映画と岩崎重義先生の話から概要を書いてみたいと思う。
「たたら」というのは炉という意味だそうである。
すでに、1200年前から日本でこの製法が行われていたが、この製法は親子代々受け継がれる世襲の「むらげ」(村下)という者を中心として、ふいごを踏むもの、労力を受け持つ者、良質の砂鉄を求めて歩く「かなや」という者、等々によって(もっと職は多い)一団が作られ、ある名前の一団により作られる鉄はその名前をとって「印賀鉄」「千草鉄」などと呼んだそうです。
はじめ、「かなや」は砂鉄を求めて旅をしていたが、やがて良質な砂鉄の産する島根県に定着するようになり、以後和鉄は島根県にしか生産されなかった。
この「たたら」からは銑(ズク=鋳物になる)、和鋼(鋼)、和鉄(生鉄となる)が出来た。昔の鉄製品は家庭用品、刃物、鎧、武器など全てこの鉄を利用して造られていた。 その後文明開化以後も大正十二年までと(その後休止)、昭和八年世情風雲急を告げ、戦争の気配迫るころから終戦まで、特に日本刀を作る鋼の需要を満たすため、このたたら製鉄法が行われて来た。
そして、終戦以後に造られいる日本刀は全て、昔、この方法で造られた鋼の残り物を使用して造られているそうです。
処が、この我らが誇りとする日本刀の素ともいうべき和鋼はその後、全く造られないばかりか、製鉄法の全てを体で知っている生存中の「むらげ」が全国ですでにわずか3名しかおらず、しかも3名とも80歳以上の高齢であり、この3名の人たちに作業してもらわなければすでにこの世から消え去り「幻のたたら製鉄法」になる運命にあったのです。
ところがまだ悪いことに、はるか都会から離れた島根県にしかこのたたらが存在しなかったため近代科学の学者に研究される機会が少なく、十分な研究がほとんどされていなかっのです。
そこで日本の製鉄メーカーの団体である日本鉄鋼協会がこの「幻のたたら製鉄法」に科学のメスを入れるべく歴史上最後の「たたら製鉄法」を実現すべく、方々から寄付金を集め、総額5500万円の予算で昨年11月に再現に成功したものである。
おどろくべきことに25年も作業を中止していた「むらげ」によって指揮され、うまく成功して昔と同じ和鋼が再び生産された有様をこの映画は大きな感動で私達に伝えてくれる。
映画は島根県の山の中の古い部落からはじまる。
そこの古い家並みが今は使わない「たたら」を中心にして「むらげ」とその一党が職人部落をつくっいた所だった。ここで新しく使う炉の建設から始められた。
現存の「むらげ」さえ作る現場を見ていない炉の土台というべき大炉、小炉が約二ヶ月もかかって作られ(これは文献を参考にして)その上、炭火で繰り返し繰り返し乾燥させられて、「たたら」が出来るまで四ヶ月も掛っている。
その間、三人の「むらげ」は作業に使う約50種の道具を手造りで作り始めた。そして他の一隊は川の浅瀬へ行き砂鉄をすくい、また、山へ行って山を崩し、水の流れを利用して砂鉄と砂をより分けました。また、別の一隊はどんどんまきを切ってきた。
そして念入りに温められ徹底的に乾燥させた土台の上に火を入れる炉を作り、いよいよこの炉の中に火の調子に合わせながら砂鉄を少しづつ入れて行くのだ。この作業が三日三晩連続で行われる。昔「むらげ」が作業を始めるとその妻は化粧をせず、その間中金山神社にお参りしたそうである。
四日目の朝、緊張の内に炉が壊され、炭火の一番下に溜まった鋼が取り出された。
その間約2トンの鉄を得るために、少しづつ人力で集められた砂鉄が約6トンも使われたのである。たたら製鉄法が西洋製鉄法と比べて違う点は、1、素材に非常に純度の高い砂鉄を使うため、できた鉄の純度が高いこと(西洋製鉄では鉄鉱石を使う)。2、炉に素材を入れて行くとそのまま鋼が出来る。(西洋では炉からは銑で出てくるため加工しないと鋼にならない)。3、約1600度の低い炉の温度で鋼が出来るため、手間がかかり、しかも少量しか出来ないが、良質な鋼が出来る。(西洋では約2100度で大量に早く出来る方法を取っている)等々で、明らかに優れていると思われる。
その昔「むらげ」の給料は米で支払われ、一日二升一合で役職の程度によりそれより一合減、二合減となっていたのである。
彼らは好むと好まざるに関わらず世襲として幼少より厳しい訓練を受けて、より良い鋼をつくることだけを誇りに、山の中で「たたら」を中心に住していたのではなろうか。
この和鋼の伝統的製法が近代製鉄法に生かされ、より日本の高品質の鋼が生産され、それにより日本高級刃物を世界中に売り込むこと事を考えると、われわれの夢もふくらむ。
(この感想文は過日行われた三条金物青年会主催のゼミにおける映画「和鋼風土記」と鋼の研究家岩崎重義氏の講演を紹介する意味で、三条市四の町、外栄金物株式会社常務外山登氏が記されたもの。三条金物卸商組合機関紙「金物ニュース」より転載)として、金物新聞に掲載されたものです。(金物新聞はその後、廃刊になっています)

この「和鋼風土記」の映画にについてネットで検索したら、福岡市の図書館の所蔵目録にあって、次のようなことが解りました。
1970年 30分製作:岩波映画製作所,高橋宏暢 
企画:日本鉄鋼協会
脚本・監督:山内登貴夫
  撮影:津島竜夫,西尾清
「日本の鉄鋼技術の歩みがどのように今日の製鉄に結びついてきたのか。たたらによる昔の製鉄を実際に再現し、そのすぐれた特性を通して今日の製鉄を考える。」


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