三条金物ニュース(昭和52/3/15号より)

三条の職人 第三回 山田海弘(山田勇一)


 三条ののみの歴史は古い。そしてその中から数多くの名工が生まれた。然し、それを書くということになると非常に難かしいが、海弘を知ることは、三条ののみ職人と歴史を知る上で非常に参考になる。左図は山田家ののみ鍛冶の家系図である。
                   山田常吉
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                           栄治(よし栄) 山田長二郎(海弘)
      
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                                                   勇一 常五郎(常弘)
 そして、山田栄治(よし栄)の弟子の一人が越彦の高木彦治であり、その弟が越孝の高木孝次郎である。
発明好きで、自作の蒸汽船で五十嵐を上り、三条もんを驚かせたという人を父に持つ山田常吉は与板出身で、先ず田島の錠前鍛冶(現在の佐野源)に弟子入りをし、錠前を造り始めたが、その後棒刀錐に転向する。どういう理由かのみに興味を持ち、いわゆる河内の熊さんに十日間のみを習った尤で棒刀錐を木織としながらも、のみを造り始めたという。勿論海弘で出したわけではないが、海弘のみの元祖にあたる。常吉には四人の息子がいたが、のみ鍛冶となったのは、長男栄治と次男の長次郎である。当時は、のみに限らず、殆んどの大工道具は問屋の商標名で売られたのであり、海弘とかじや名で世に出るのは、大正十年頃だという。長次郎は「海弘」に大海の如く名を世に広めるという意味を込めており、彼の意気と自負を、感じさせる。最初はカイヒロと読ませたそうであるが、いつの間にかウミヒロと呼ぶようになった。

 三代目海弘、山田勇一は明治三十八年十一月二十八日生まれ、現在満七十一才である。数えで十四の時、鍛冶場に入り、父の仕事を手伝。海弘の名でのみを出した時は、彼が十七才の時であった。当時十六、七才といえば、もう誰 もが一人前に仕事をしたものだった。火造りは父の担当であったが、仕上げは彼の仕事だった。又父親によく連れられて古鉄屋に行き、安くて良質の鋼をみつけて来たという。ある時はそれを東郷鋼で造ったのみだといって高く買 ってもらったこともあったと云う。終戦後の物資のない時は、ヤスリ材を使用した。スウェーデン鋼を使ったこともあったが、現在は安来の二号である。

 物を造る人達は大体自信家が多い。昭和十六年に父長二郎が死去し、海弘ののみが自分の双肩にかかり、そしてその自分の海弘に問屋の注文が集まれば自然と天狗になる。その自信を打ち砕いた人が、岩崎航介であった。昭和三十四・五年頃であろう。

 岩崎は、海弘の鍛冶場に来ては、立派なのみだとおだてながら、岩崎の持論を説き始めた。最初はフンと思いながらも、段々と彼の話に引き込まれていった。その当時東京・播州ののみが評判が好く、それに反して三条ののみは値段が高すぎると問屋の値引攻勢に業を煮やしていた時でもある。三条ののみが如何に優秀であり、高いものでないかを証明してみせようという気なった。

 昭和三十年海弘は二代目三条のみ組介の組介長に就任する。その年から、岩崎を中心とした研究会を毎月一回開くことにした。初めて鋼を顕微鏡でのぞいてみる。経験と勘だけを頼りにしていた製法が、この時から徐々に変ってい く。毎月、岩崎に品評をしてもらうのだが、最初の半年間は全組合貝の製品は落第であった。海弘は今でも岩崎を三条ののみの恩人だと思っている。

 その他組合長在任時代の業績として、「全国のみ製造業組合連合会」を組織したことであった。三条・与板・東京・播州の四組介を連合し、組介間の技術・情報の交流を図り、共通の問題を処理していこうというものであった。海弘個人の発案ではなかったであろうが、金物問屋への不満の表われであり、問屋に常に値引を要求され、自分達の労苦が報われてはいないという気持は、三条だけの問題ではなかった。組合長在任時代、組合の書記、いわゆる秘書役で影で頑張ったのが、高木倉八郎(三代目越彦)である。二人で、のみ鍛冶をやって良かったと思う時が来るように頑張ろうとよく云い合ったものだという。岩室で連合会の設立総会が開かれだのは、昭和四十一年の事である、(然し、播州は不参加)

 海弘は親分肌で通っていた。人を引っ張っていく力があった。それが組介長在任十六年という記録を残すことになった。昭和四十六年六十七才の時.組合員を辞めたが、長期間の無理がたたったのだろう。翌々年の四十八年五月脳出血の為右手足が不自由になり、それからはのみを造っていない。

 それ以来、彼の一人息子賢一が一人で海弘の伝統を受け継いでいる。昭和九年生まれで十六の時から父を手伝って来た。多忙な父の代りに被一人でのみを造って来た。四代目への実際のバトンタッチは既に終っていたのだろう、今は何しろ全て一人である。一人で問屋の催促に追われている。

 その四代目に後継者問題を問うと、息子の意志を尊重する他ないと笑う。それを受けて二代目は時の流れで仕方がないとポツリと一言。三代目自身、のみに見切りをつけ、ダイカストに目を向けていった時期を思い出しているのかもしれない。

 二代目に鯉の話をしたら、急に目を輝かせ、去年の三条品評会で優勝したと鯉の自慢話には余念がない。現在は鯉と庭木に明け暮れる毎日である。
 最後に生まれ変るとしたら、やはりのみを造るかと問いに、「金物屋になるね。」と即座に云って笑った。来年は金婚式を迎えるのだという。まだまだ長生きしたもらいたいものである。
    文中にある、三条の鑿組合が組合として全員で岩崎航介さんの指導を受けたことは有名な話です。

  まず、各自が自分で製作した製品を持参して岩崎さんから顕微鏡で審査を受けたそうです。
  直ぐ、合格した方もいましたが、不合格の方が結構おられたそうです。不合格の方は毎日のように再度作り直して晩になると検査を受けに行きました。
  もし、ダメの場合でも岩崎さんは、どうしたらよいということは決して言われず、ただ、「残念ですがダメでした。」とだけ言われたとのこです。
  それは合格品・・・、要するに切れ味が間違いない品の製法を本人が苦労して自分で会得するために、そういう指導をなさったと聞いています。
  そして、やがて、全ての組合員が合格するのです。
  それ以後、三条の鑿は全て良く切れるという絶大な評価を得るようになったのことです。
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