東郷ハガネ

「河合鋼鉄111年のあゆみ」より

東郷鋼が良く切れたと、失われたものへの郷愁のように言われるようになりましたが、では、東郷鋼とはどんなものだったかを詳しく知る人はいません。
岩崎重義さんのところで、そんな話をしたら、「私はそれを調べたいために河合鋼鉄を訪問して話を聞いてきました。」と申されます。

河合鋼鉄を訪問した時に、「今では、東郷鋼を持っている処はないでしょうね、とお聞きしたら、岩手県の鋼材屋さんにあるとのことで、そのお店に電話をしてもらって、そこから山鋸用の材料を二枚分けてもらって来ました。今でも現品があるのですが、錆びが浮いてラベルが取れてしまいまして、ラベルの貼ってある写真は撮っておきましたが。」とのことでした。
左がその写真です。

この材料は鋸用ですから鉋用よりは炭素量が少なくて鉋には使いませんね、と申しましたら「いや、0.8ありますから使えますよ。」とのことでした。
炭素量がやや少なめでも、その材質を完全に生かし切れれば切れるものが出来るということのようです。
鋼が持つ性能を完全に生かし切れるなら高級な鋼ばかりを追う必要はない、高級な鋼は処理が難しくなるので、却って、完全に生かし切れない場合が多くなるのではないか、というのが私の持論です。

そして、岩崎さんから「河合鋼鉄111年のあゆみ」という社史をお借りして来ました。
この社史から引用しながら東郷鋼の何たるかを考えてみたいと思います。
河合鋼鉄(株)の発祥については次のように書いています。

   明治4
   (1871) 中興創業
  3月

   屋号 井坂屋 中興初代 河合佐兵衛
   (略)
   中興初代河合佐兵衛(後隠居して佐翁)は、奇遇先の「浅草井坂屋」より独立。
   江戸時代から金物業、打物業の多かったこの地に金物業を開いた。
   当初、和鋼の得意先は東京府内の刀鍛冶、各種刃物、鋸、諸道具の鍛冶職であ
   ったが、その後、千葉、古河、高崎、桐生、藤沢など、関東一円の鍛冶職にも
   納入するようになった。
当時は金物屋が鉄、鋼なども販売していた様子が伺われます。
そして、明治十年に時代の変化に対応した新しい試みが実行されるのです。
それは、これからの時代は洋鉄の時代だと判断して、本格的にその販売に取り組むのです。
   明治10 “洋鋼"の取扱いを始める

   初代河合佐兵衡は,文明の進歩と共に将来"鋼"の需要が必ず増加すると言う先
  見性から,卒先して洋鋼の取扱いを計った。
   井阪屋は,江戸時代から出雲(島根)伯耆(島取)等から出る砂鉄を原料とした玉
  鋼およびこれを鍛錬した和鋼を取扱い,刃物鍛冶,野鍛冶等に納人していた。
   明治に人り文明開化が進み,明治4年には廃刀令がだされ,刀鍛冶は打物鍛冶へ
  の転業をするものが多かった。また,断髪令にて「ちょんまげ」から「ざんぎ
  り」になると,散髪鋏やバリカンの需要が急激に増加する等、初めは舳来品で
  あったが次第に国産化する品が多くなった。この様に文明開化により生活は次
  第に洋風化し,刃物類,諸道具等に至るまで変化があり,多様化が進み、"鋼"の
  需要が増加しつつあった。
  なお,従来の玉鋼,和鋼を材料にすると,特殊な技術と多量の炭を必要としたが,
    洋鋼には,種類,型状,寸法が多く,目的に適した品を選べば,その労力と炭は,
    和鋼を使用する時の数分の一を必要とするのみにて,洋鋼の価格が和鋼に比べ
    安かったこともあり,洋鋼の取扱いは非常に喜ばれた。
現在もそうですが、何時の時代でも、時代の先を見て取り組んだ経営者が成功する様子をここに見ることが出来るようです。 そして、この時の洋鉄に力を入れたことが、やがて次に書かれているように、東郷鋼の誕生に繋がるのです。
  明治39
  (1906)  東郷ハガネの誕生
  
  明治38年,日露戦争の日本海々戦にて,敵のバルチック艦隊を壊滅させ,大勝利
  を博した東郷平八郎大将は,聖将とあがめられ,世界中にアドミラルトーゴーと
  して名声が轟いた。その頃,洋鋼の輸人先である英国アンドリュー社から,「東
  郷大将の名前を商標に使ったらどうか」との話があった。
  また,アンドリュー社の専務取締役,チャーレス,ベレスフォード元帥からは,
  「東郷大将が少尉で英国に留学された折,軍監の操縦を教えたことがある。
  東郷大将は当時より沈着で聡明であつた。自分の教え子が偉大なる功績をあげ
  られ,非常に嬉しい。外国ではナポレオン,ビスマルク等偉人の名を商標にする
  ことがある。東郷は「TO,GO」で幸先良い名前であり,英国では白分が東郷の名
  を登録するから,日本では河合が登録してはどうか」と話があった。
  当時の日本では,人の各前を商標に使用することは,考えも及ばなかったが,
    その後,東郷大将を訪問し,先の、話をしお名前を拝借したい旨お願いしたとこ
    ろ,東郷大将は,チャーレス元帥を記憶しておられ,「自分は若い頃から鋼に関
    心をもち,小刀を作った事もある。アンドリューの鋼一番良かった」と言って,
    鋼の商標に名前を使う事を心よくお許し頂いた。
  東郷大将と言う偉大な人の名前を,商標に使用させて頂くからには,お名前を汚
  さぬ様良い「ハガネ」を扱い,真面目に仕事をしなくてはならない。
  また,東郷大将に感謝するため,東郷大将より頂いた写真を飾り,こうして感謝
    祭を行うのである。
   大正2年5月27日感謝祭の席上における
   河合佐兵衛の談話より

  明治39商標の登録とラベル

  東郷大将の商標と,従来の商標を登録し,商標、商品名を印刷したカラフルな
  「ラベル」を作った。
  ラベルを「ハガネ」に貼付することは,国内では,河合が最初であり,ラベルの
  赤,白,黄,緑等美しい色が「ハガネ」に色どりをそえた。その後,ラベルには簡
  単な熱処理方法を印刷し,使用者の便を計る様になった。
  ラベルを貼付することにより,そのハガネの保証をして,使用者が安心して購入
  出来る様にしたのである。
  このラベルは,他の模倣するところとなり,ラベルのない品は,ハガネではないと
  まで,言われる様になった。

  ハガネ専業となり
  商号改称「河合洋鋼商店」となる
  東郷ハガネの誕生を機会に,取扱い商品をハガネ専業とした。その他一部取扱っ
  ていたネジは佐野初太郎商店に,ヤスリは福島ヤスリ(トンボ印)にそれぞれ商権
  を無償譲渡した。
  これを機会に,明治4年開業以来使用した商号井阪屋を,「河合洋鋼商店」と改称
  し,東郷ハガネの普及に全力をそそいだ。

上がそのカラーラベルで、写真をクリックして頂くと大きくて詳しい写真をご覧頂けますし、更に進んで頂くと各ラベルの拡大写真と解説をご覧頂けます。
  明治42「河合洋鋼商店規格」の東郷ハガネを販売
  (1909)

   中興二代河合佐兵衛が,研究を重ねた和鋼および洋鋼の知識と、利用者からの
  要望を取り入れた「河合の規格」を,英国のアンドリユー社,スウェーデンの
  フーホースニ社,およびドイツのパイルドン社に製造を依頼し,これを「河合
  の規格品」として販売した。
  「これまでの洋鋼はネバリがなかったのでアンドリユー社に和鋼の見本を送り,
  これと同様のネバリのある材質を依頼したところ,昔は同様の品を製造したが
  今は出来ないとのことであった。そこで各国かち改めて見本を集め試験した結
  果.スウェーデンのダンネモラ鉱山からの地金が、比較的希望に近かったので,
  アンドリユー社にこれの使用を依願し.漸やく希望の材質が出来たこともあっ
  たのである。(河合佐兵衛談話より)」

  明治43 店舗増築・商号改称「河合鋼商店」となる
  (1910)

    店舗前の東に隣接して三階建石造りの地物を増築し,店を洋風に収めた。
   このため、先に建築した向側の三階建陳列館と併せ近隣に異彩を放った。
   また,店舗の拡張を機会に,商号を改称し「河合鋼商店」とした。この商号は
    昭和13年に.株式会社に組織変更になるまで30年近く続いた。
下が増築した店舗の写真です。

東郷鋼には、合金鋼であるハイス鋼に代表される鋼と、和鋼の玉鋼の成分に似せて造ってもらった鋼があり、その玉鋼似の鋼で、刀匠から刀を造った貰って試し切りをしたのが次の記録です。
    大正3 東郷ハガネで「兜」の試し切り
   (1914)
   玉鋼で鍛えた「日本刀は,15回繰返し鍛練すると,32768枚重ねたことになり,
    このため靭性が非常に強くなる。
   河合の規格で製造した「東郷ハガネ」で,刀匠羽山円真氏に日本刀を作っても
    らい,兜の試し切りをしたところ,見事に真二つに切れ,硬さも靭性も強いこ
    とが証明された。
   この日本刀と兜を,東郷元帥に贈ったところ元帥は非常に喜ばれて,著名人り
    の写真と明治44年に英国皇帝戴冠式に参列された後,アンドリユー社を訪問され
    た時に使用された杖を項いた。
そして戦争と共に輸入が出来なくなって終戦となります。
今、東郷鋼というと当時の残りを在庫しているところしかないことになります。
また、現在では日立の安来鋼が日本発の高級刃物鋼として輸出されています。

社名は次のような変化を辿っています。
昭和13年 株式会社 河合佐兵衛商店
昭和19年 河合特殊鋼株式会社
昭和21年 河合鋼鉄株式会社

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