たたら鉄の火 海軍が延命


日経新聞16/9/2号より

 山陰地方の鉄の歴史・民族学を研究 渡辺ともみ

 砂鉄を原料とする日本独特の製鉄法「たたら製鉄」には、分からないことがまだたくさんある。
その終わりもしかり。「明治期になると洋鉄が輸入され、八幡製鉄が発足して息の根を止められた」とされているだけで具体的にはあまり分かっていなかった。
 思わぬことから鉄の歴史・民俗学研究を始めた私は、たたら製鉄終焉の状況を調べ、旧海軍が延命に大きくかかわっていた事実を知った。

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 日本刀の素材で注目
 日本が西洋の近代製鉄技術を導入したのは一八六〇年代。明治政府は官営釜石製鉄所を建設、自力の鉄生産を目指した。が、失敗し、製鉄近代化政策が一応の完成をみるのは明治三十四年(一九〇一年)、官営八幡製鉄所が銑鉄一貫生産体制を整えて以降である。
 こうした状況に危機感を覚えた軍部は、兵器製造のため自ら鋼づくりの研究を進めた。
 鉄には不純物として炭素以外にも様々な物質が混入している。中でも有害なのはリンとイオウである。リンやイオウが多いと衝撃などで鋼が割れてしまう。許容される濃度は○・○三%以下。日本は世界的に優秀と認められたスウェーデンの銑鉄を原料として輸入する一方、「軍器独立」の立場から日本刀の素材になるたたら鉄に着眼した。
 海軍省がたたら鉄に関心を寄せたのは早く、明治十六年秋、海軍省兵器局の大河平才蔵・造兵火監が島根県を巡察。十七年に出雲・伯耆の製鉄業者に試験用として数トンの鉄製品を発注している。
 山陰の製鉄業者には、出雲のご三家と言われる田部、桜井、絲原家と、伯耆の近藤家があって、この四家が海軍の要請にこたえた。
 明治十五年には鉄価下落で、たたら経営がほとんど成り立たなくなっていたので軍需への期待は大きかった。しかし明治二十年代末までは海軍が技術を蓄積する期間で、兵器試作用に数十トンを受注するにとどまった。

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 極東急変受け軍需急増
 三十年代以降、発注は増大する。ロシア東洋艦隊の著しい増強によって極東情勢が急変、三十年代半ばの日英同盟締結を背景に軍備増強が本格化したためだ。三十五年初めまでに雲伯製鉄業者に対し、呉海軍工廠から約三千七百五十トンの注文があったことが分かっている。先にあげた四家は、「海軍用鉄材の完納組合」を結成して鉄材納入体制を整えた。
 明治三十六年、呉工廠に製鋼所が発足。海軍の造艦体制が整った。たたら鉄の納入量も急激に拡大し、ピークの三十七年には売納組合の納入量は二千百五十トンに達した。
 たたら鉄のうち、一般の市場に最も多く出荷されていたのは銑鉄を鍛冶場で鍛錬した「包丁鉄」だった。海軍へも最初は包丁鉄が一番多く出荷されていたが、低リン性を強く要求され、リン含有量の少ない「玉鋼」の納入量が増えていく。この時期の山陰では鋼生産量が一時的に増加した。たたら鉄というと玉鋼、そして日本刀の印象はこれらの結果、形成された。
 海軍との納入契約書では、リンは○・○二五%以下で、海軍やスウェーデンの規格よりも厳しかった。実際には○・○三%までの納入が認められていたが、その場合に一定率の値引きをするという契約内容だった。
 以上、具体的な数値の資料は絲原家(島根県仁多郡横田町雨川)のご厚意で閲覧させていただいたものである。

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 業者は製炭業に転換
 塗料メーカーの研究者として勤めた私が古文書に向かい、たたら鉄を研究するようになったのは、生涯学習のため日本女子大学に社会人入学したのがきっかけである。
 卒論テーマは「たたら鉄にまつわる信仰について」であった。鉄の研究は学際的なアプローチが必要で、自然科学、考古学、歴史学、民俗学、人類学、経済学などの研究者が同じ土俵で討論することが理想だ。大学院に進み、神奈川大学の歴史民俗資料学科に在籍したことは幸いであった。
 大学院博士課程では 「たたら鉄の技術とその近現代史」をテーマにした。そこから海軍との関係が浮かび上がった。
 山陰の製鉄業者は明治四十年以降、不況で経営に苦しみながらも、リンを除くための技術開発にも取り組んだ。が、海軍の要求は低リンの一点に絞っていたので、付加価値の高い包丁鉄も鋼も買いたたかれた。  大正五年から七年までは第一次大戦の影響で鉄価が暴騰し、軍需も再び増加して製鉄業者は息を吹き返す。ところが、この直後に不況が襲う。さらに大正十一年(一九二二年)のワシントン軍縮条約締結によって決定的打撃を受ける。そしてたたらの火は消えた。
 が、たたら製鉄業者は終焉をみる前に製炭業への転換を準備、従業員とともに一斉に転業を図ったのである。(わたなべ・ともみ=神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員)

    このようにたたら製鉄は、明治時代に低コストで製鉄出来る洋鉄の製法が普及してから危機的な状況になるのですが、海軍の注文で息を
  付くことになります。
  更に、大正11年に国際的な軍縮会議が決まっために軍需が減ることとなり、12年には全てのたたらが廃業することになります。

  そして、昭和に入って、国際的な戦雲が急を告げてから軍刀の製造のために改めて「帝国製鉄梶vとして再開されることになるのです。

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