「たたら製鉄に映る日本史」
◇鉄鋼業界関係者や考古学者が集い学際研究◇館充著

日本経済新聞15/12/19号「文化」のページより

日本には古来、砂鉄を原料とするたたら製鉄があったことはよく知られている。だが、製鉄がいつ始まりどのように発展したのか、アジア諸国との関係はどうだったのかなど不明なことは多い。
そうした疑間を解きたいと、私たちの研究会が発足して六年!成果の一つとして『近世たたら製鉄の歴史』をまとめた。

大学で鉄の製錬を研究をしてきた私は以前からたたら製鉄に関心があった昭和和四十年代以降は研究する人も増えへ先輩技術者から研究を勧められたが、鉄鋼業界から物心両面の援助を受け試験高炉の実験を続けていた事情もあって踏み切れず、心に封印をしてきた。

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鉄鋼協会内に分科会

定年を迎えてしばらく後の一九九六年、日本鉄鋼協会の中で杜会と鉄のかかわりを研究する社会、鉄鋼工学部会に「前近代の鉄の歴史」をテーマにしたフォーラムを創設する構想が持ち上がった。
相談にあずかった私は、これで腰をすえて研究できると心を躍らせた。
分科会は予想以上に関心を集め、三百人近くが参加した。考古学者が実に三分の一を占める。元経営者ろ元大学教授ら0B組が三分の一、残る三分の一が鉄鋼メーカーや大学の金属工学・金属精錬の研究者だ。

フォーラムには技術史、基礎研究“実験研発など四つの"研究グループがある。私は技術史グループの一員として三カ月に一度、東京近郊に集まって議論を戦わせた。十数人のメンバーの中には中国地方や東北地方在往の人もいる“一日で議論が終わることはなく、その後は一人ひとりに手紙を書いて疑間点をただし、反論を聞いた。

日本製鉄微は握<とも六世紀半ば、広島県東部から岡山県にまたがる地域で始まったことが考古学的に実証されている。
当初、鉄原料には鉄鉱石が使われたが、六世紀後半かち砂鉄を原料にした製鉄へと変化、八世紀半ぱにはどこでも砂鉄を原料とするようになった。
中国・韓国・日本で発掘された資料を基に古代製鉄技術を比較すると、東方へ行くにつれて炉は小型化する。日本の初期製鉄炉は箱形で、高さ一メートルに満たない背の低い炉。約一世紀後、大陸から竪形炉がもたらされた。奈良・平安時代の鉄生産は箱形炉、竪形炉という系譜の全く異なる二つの製鉄技術が支えた。

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18世紀に年産1万トン

たたら製鉄の画期は近世だ。技術も生産量も飛躍的に発展した。炉底地、下防湿施設と送風技術が進歩し、炉内温度を高くできるようになったからだ。特に活躍したのが足踏み式の天秤鞴(てんびんふいご)。手で押したり引いたりして風を送る差し鞴の二倍の生産性をもたらしたという。

江戸時代初期の爆発的な人口増加で、鉄需要は急増した。一六○○年代初めに千二百万人を数えた人口は百二十年後の江戸中期には二・六倍の三千百万人を超えた。農地開発のため膨大な量のスキ、クワなど鉄製農具が必要になったのである。
私たぢの推計では、鉄生産量は一七八○年代に年間約一万トンに達した。
その七五%は西日本で生産されている。需要の約七割を農具が占めた。

鉄生産の先進地、中国地方の早い段階のたたら製鉄では、軟鉄塊(固体鉄)を主生産物とし、炭素を三・五%前後含む溶融状態の鉄(銑鉄)を副産物として得ていた。その後、炉内の高温化に成した砂鉄を使うことで銑鉄を主生産物とする製法が開発された。これが銑(ずく)押し法である。銑を精練して低炭素の鉄を作る大鍛冶技術も開発された。

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経営指南書を現代語訳

一方、炭素を多く合む鋼の製造を目的とした(ケラ)押し法もあった。高炭素鉄材は焼き入れ硬化性があって武器には不可欠の鉄材だが、銑挿し法に比べれば微々たる生産量だったと考えている。
たたらというと日本刀というイメージが出来上がっているためだろうか、高炭素鉄材生産に向いた製鉄法と思われがちだが、実態はそうではなかった。
私は技術研究にして『鉄山必用記事』の現代語訳にも取り組んだ。一七八四年に伯耆(鳥敢県)の下原重仲が著した鉄山経営の指南書で、製鉄技術に関する記述はむろん作業歌や藩庁に提出する文書の書き方まで網羅した本だ。

今年五月、弥生時代の始まりをめぐって大きな問題提起があった。科学的評価は今後の研究にかかっているが、カギの一つは日本列島にいつ鉄が導入され一かである。
中国での鉄の生産、普及は定説通り良いのか、研究テーマは尽きない。(たて・みつる=東京大学名誉教授)


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