三条の職人シリーズ 山口介左衛門


現在税理事務所を経営なさる
息子さんの英夫さんです
三条の金物の歴史の中で長い間栄えたの業種の一つに鋸があります。

その鋸鍛冶の中では、中屋伊之助(深沢姓)が一番有名でしたが、七代も続いた名家でしたから当然だったと思われます。
次いで、伊之助の歴代の分家と弟子筋に有名な銘柄が沢山あり、私が金物業界に入ってから知っている範囲で深沢系の定次、源次、清吉、達次、寅次郎、弟子筋の貞五郎、貞助、深水などなど・・・、沢山の系統の方がおられ、みなさんが注文を沢山抱えて忙しがっておられました。

ところが、この伊之助系の職人さんの中では、あくまでも伊之助が大親方ですから、値段は常に伊之助が一番高く、弟子筋がそれに続いており、伊之助を超える価格を付ける人は居なかったのです。

そんな時代に、伊之助より高く値を付けておられた、別の系統の職人さんが、私の知る限り4人おられまして、それが山口介左衛門、五十嵐万吉、大場正一郎、佐藤長一郎でした。

たまたま、山口介左衛門のご長男が私と同年で存じ上げていた事から、介左衛門の資料をお借り出来ましたのでご紹介します。(16/5/1記)
「伝統の号具」11より引用しました。

撮影−彰国社写真部:中川 徹
         文:土田一郎
品名/9寸片刃鋸(縦・横)
 作/山口介左衝門
年代/昭和49年5月

名古屋の大工さんから、大場正一郎さんに胴付鋸を造ってもらいたいのだが−と相談され、新潟県の三条市に大場さんを訪ねたことがあります。「胴付は手がかかるうえ、いまは仕事がたて混んでいて、とても引受けられない。そんなに言われるなら上手な人がいるから」と、大場さんに連れられて、三条市の八幡小路にある山口さんを訪ねたことがあります。

ちょっと思い出せませんが、昭和30何年頃だったか、古い町並みの曲がり角から2軒目入ロの土間から一つおいた六畳ほどの一部屋に山口さんは住んでおられました。

 仕事場はと見ると、その家の中庭とは名ばかりの、隣家との境の狭い空間がそれでした。私は内心,この仕事場から、大場さんが奨めるような胴付鋸が出来るのだろうか−と失礼なことをチラッと考えたほどでした。


 上がり込んで、いろいろな話をしたように覚えておりますが、胴付鋸のことはそっちのけで、両刃鋸はむずかしい。1枚の鋸板で、縦も横も通用させねばならない。板肉の配分−特に8寸両刃は思うようにいかなしいものだ、としきりに首を振っていられたのを思い出します。

 それからしばらくして、再度三条に山口さんを訪れたときのことです。いつもお世話になっている宮口さんと同道で参りました。驚いたことに、宮口さんと山口さんは小学校の同級生ということでした。
 はるかな少年時代の昔話は尽きることなく楽しそうでした。やがて行きつくところのように鋸の話になり、山口さんの思い出話に移りました。
「父も鋸鍛冶でした。小学生の頃からあちこち使いに出きれたものです。取引先の金物屋に鋸を届けるのも私の役目でした。出来上がった鋸を持って行くと、金物屋の主人は、一枚一枚ていねいに見て、そのうちの何枚かの鋸を取出し、この鋸はここ、これはここ、と、欠点を指摘していき、あげくの果ては、請求金額から何ほどか差引いて代価をくれるのです」
「別に不思議にも思わず、なかなか厳しい人だなあと子供心に思っていたものです。ところが、いつものように届けに行くと、私の前にやはり据を届けに釆た人がいました。主人は、その包みを受取ると、鋸も見ず、数も調べず、大金を頭を下げて渡しているのです。私の番になると、いつものように、1枚ずつ手に取って、例のごとく代価を支払ってくれるのです。−あとで知ったことですが、その人は三条でも有名な鋸鍛冶だったのです。そんなことを知らない私は、子供心にもなんとも言えない腹立ち、を覚え、帰ってから父に話をしたものです」
 そして、「もし、おれが鋸を作るようになったら、誰にも負けないすばらしいのを作ろう」と決心したのだそうです。

 やがて、独り立ちで仕事をするようになってもその決心は変わることなく、信念となり、一層強く燃えていったのです。
周りの人から「鋸は良いが、すこしは採算のとれるように考えたほうが・・・・」と再三注意を受けましたが、「人が見てどう思おうが、自分の心をだますことはできない」と鋸造り一筋に生きていました。
ところが、折からの戦時体制のもとで、徴用にとられ、軍需生産工場の職工として勤めに出なければならなくなり、鋸造りはできなくなってしまいました。
 敗戦とそれにつづ(世情の大混乱の中で、父の代からの仕事場はいつしか人手に渡り、六畳一間の間借生活が再スタートの場となりました。鋼の良いものを手に入れ、火造りは知人の仕事場でやり、こみ付けや焼入れは別の仕事場を使わせてもらい,荒削りなど3〜4軒の鍛冶屋を渡り歩き、仕上げを間借り先でするという状態で、苦労しながら、再び鋸を造り始めたのです。

 こうして、出来上がった鋸でも、名前が売れていないせいもあり、なかなか世間に受入れてはもらえませんでした。ときには、仲間の下仕事をやり、自分の鋸に他の鍛冶屋の銘が入れられることもありました。しかし,鋸には変わりがないはず−と、自分の信念どおりの仕事を続けました。
 あるとき、下仕事を組まれた鍛冶屋から、硬度の高い鋸を誤解され、火造りで傷めたもろい鋸と文句を舌われたそうです。山口さんは、自分で納得のいっているもの一歩も後に引かなかったということでした。

 私がお訪ねしたその頃は、不自由な生活のなかで、隣家との空間に仕事場を広げ、荒削り、仕上げ、狂い直しのできる時期に当たっていたのです。早朝から夜の11時頃まで、食事も仕事場で採り、自分の信念をゆるがせにせず、想像を絶する努力を重ねていた頃だったと、今にして思い当たります。

 昭和40年代の前半になって、厚意を寄せて下さる方の援助もあり、念願の火造りのできる仕事場を建てることができました。「これでよし!」−山口さんの信念と情熱は火床の炎に負けないほどのようでした。
 あるとき、Eで述べた宮野鉄之助さんのご子息、裕光さんが、山口さんを訪ねたことがありました。「山口さんは素晴らしい。4人でなければできない仕事を1人でやっておられる」と話しておられました。

 その、山口さんの仕事に、燃え尽きる時が来たのでしょうか。昭和49年5月、体の調子が思うようでないからと、入院されたのです。11月の半ば、新潟市の病院から電話をかけてこられ、「入院の前に気分良く仕上がった鋸があるので、宮口貞吉さんとあなたに差上げる」と言われるのです。「早く良くなって下きい。そしてすぐには鋸が仕上がらなくても、鋸にさわっていて下さい。鋸のためですから」と電話を切ったのです。山口さんの声に元気がないな−と思ったものでした。昭和50年1月9日、山口きんは他界されました。63歳。まだまだお若いのに名工・・・・と惜しまれてなりません。

 写真の鋸は山ロさんの遺作となってしまった。


次は、「こんにちは三条」三条青年会議所発行(50/4/2)より引用しました。

人間賛歌
或る名工の生涯

 三木・小野と並んて、長い伝統と高い品質で全国に知られる三条の金物。老人が長歴史の中で、数々の試練と戦いながらも幾人もの名工を世に送り出してきた金物の町三条−去る二月二十二日、東京京都立産業会館大手町館を会場に、数万点にも及ぶ製品を一堂に集め、大規模な三条金物の関東見本が開催された。
そしてその会場一遇に、三条に生まれ、三条の風土で育ったひとりの鋸職人の作品が、来場者の熱い視線を・・・浴びていた。
造一筋に全生命を打込んだ一人の男の生き方を強烈に見せつける。

 氏(山口介左衛門)は金物の町三条の鍛冶屋町として知られる天神前で、鍛治職の子として生れる。先代の手伝いをするようになったある日、使いで市内の金物問屋へ出来上った鋸を納めにいった。丁度その時、業界で名の通った同業の鋸メーカーが納品にきており、問屋は品質もみず枚数だけ検収して代金を払った。ところが自分が持ってきたものを差出すと、ためつすがめつながめわたし、何かにとなんくせをつけて値切られ非常に腹立たしく思った。職人として生きてゆくためには有名になって信用を得なければ嘘だ。そのためには腕を磨いて誰れにも負けない高品質の鋸を作ってやろう。
―とその時誓ったそうである。

 その時依頼妥協を許さない鋸一筋の生活が始まる。ちなみに最近の鋸の製造は大量生産の要求から機械化、合理化が進んでいる。しかし山口氏の場合は、鉄材、副資材から吟味し、気に入らぬものがあると気にさわると言って二足三文で売り払ってしまう。また六日間の製造のための道具揃えにタップリ一日を要す神経の使いよっである。「セン」という道具を使って一枚の鋸の表面を荒削りから仕上げまで丁寧に磨き上げる−工程の中で一番技術と時間を要する部分である。

 こうした採算を度外視した品質一途のやり方は、育ち盛りの六人の子供を抱えた家計を困窮に落とし入れた。見兼ねた人が「そんなに品質ばかり言わず少しは儲けて生活にすることを考えてはどうか」と言うと「問屋の目をゴマかせても自分をゴマかすことはできない。俺は鋸の製造に一生をかけていいる。俺が作る鋸一枚一枚には俺の魂が込められている。いい加減なものは絶対出せない。」と一蹴されたという。

 こうした血のにじむような精進の結果、ようやくその品質の優秀さを認められるようになる。その理解者の一人が現在六の町で金物商を営む宮口貞吉氏である。
 小学校当時同級だった宮口氏は言う。「彼は口数の少い、一徹な男でした。しかし一度仕事の話となると夜中の一時、二時でも時を忘れて喋り合ったものです。私の東京の得意先で、刃物にかけては日本有数の目利きと言われる土田さんという人がいますがこの人が以前から山口氏の仕事振りを認め、幾らでも買うから全部持ってきてくれるようにという惣れこみようでした。寡作でしたから盛りの頃でも月に二十四枚、最近では月に十二枚が限度のよっでした。

本当に惜しい人を失ったと如何にも残念そうである。
「子供達も皆大きくなり ようやく気楽な鋸作りができるようになったら逝かれてしまった。」涙ながらに話す奥さんの眼には、故人に対する労らいと敬愛の念が現れ、また内助の功をなし終えた自信の眼差しがあった。
 山口氏の生き方は金物の町三条の誇りであると共に、昨今の昭和元録の世相に村し痛烈な「一つの生き方」を示していると言えよう。

日本鉄鋼連盟が発行した海外向け小冊子「日本の鉄鋼、1973」には、故人の仕事振りを紹介する貴重な写真が掲載されている。

同連盟稲山会長の挨拶ではじまるこの小冊子は、いまや全世界に配布されているのである。
以上

次は昭和28年に頂いた表彰状です。



山口介左衛門の両刃鋸がこちらから御覧頂けます。

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