三条金物ニュースより

三条の職人 深沢清吉


 初代深沢清吉 明治十年四代目深沢伊之助の四男として生まれる。もちろん長兄は五代目伊之肋であり、次男は初代深沢熊之肋、次男は深沢善之助、弟の五男は初代深沢清次郎と、真に鋸一家である。

 明治四十一年三十才の時、独立創業し、清吉の鋸を世に出す。独立する数年前から岩崎又造に認められ、夜なべ仕事で自分の鋸を造り、清吉の銘で岩崎に買ってもらう。独立後の鋸は殆んど全部岩崎が引き受けていた。売り先は、東北、北海道が主で、時には、満州の方面へ清吉の鋸は売られた。
 二代目清吉(本名 保治)明治三十八年九月十六日に生まれる。小学校六年を終え、尋常高等小学校を二年通っただけで鋸を手伝わされる。今でいえば遊びざかりの十四才の時である。

 当時の鋸の材料は六分角で長さが不揃いの角鋼から輸人材である一分厚、長さ八尺の東郷鋼が使用され始めた頃である。これだけでも大分仕事が楽になったといわれる。又、大正十二年九月の関東大賞災後の復興景気があり、鋸の生産が間に合わなくなり、大正十三年に四日町と横町のニケ所に「ハンマー共同製作所」が出来たこと により、鋸の機械化の始まりはみられたが、まだまだ手作業に頼る生産方法であった。
 二代目清吉少年が鍛冶場に入ってやらされたのは、拡げもの、けずりもの。そして狂いとり、目すり。夜なべの連読である。「青春などという浮いたことは、これっぽっちもなかった」と云う。そういう生活に追い討ちをかけだのが、父の死であった。初代清吉四十七才、二代目清吉が二十才の時である。これから脂がのろうという働き盛りである。基礎が出来た息子にそろそろ本当の鋸造りを教えようかという時でもある。「父が病床についたのが八月の暑い頃で、私がアサリを出していると、隣りに寝ている父が、その刃槌の音を聞いて、今のはアサリが強く出すぎたとか、今度は弱すぎたといって注意されました。その年の十一月に亡くなりましたが、最後まできびしかったです。」と述懐する。父の死後、家族八人が彼の細腕に頼った。火造りも何度も失敗しながら、みようみまねで体得していった。「俺が鋸を造らなければ、家族を食わしていけない。ただその気持だけ」たった。

 悪いことが重なるもので、二年二後には、補充兵第一乙で新発田へ配属が決まり、弟の達次(初代深沢達次)と職人三人に仕事をまかせ、三ケ月間三条を留守にしなければならなくなった。役務を終えて帰条する三ケ月間に二百枚の鋸が出来ており、問屋に出すばかりになっていた。「いやあ、不思議なもんで、たった三ケ月間鋸をみないでいるだけで、鋸の良し悪しがわからなくなるもんなんですね。二百枚の鋸を前にして最初は皆んな良くやってくれたと喜びました。ところが、五日経ち十日経ってくると、段々眼が元通りになってくる。そして改めて二百枚ほどの鋸を見直すと、刃が厚いとか薄すぎるとか、腰が弱いとかで、とても出せる品物ではないことがわかってきましてね。泣きの涙で全部ぶちゃりました。問屋はそれで良いから、早く売れという。家族をかかえた母親も売ってくれと頼む。売れば当時三円六十銭で売れた。並の鋸で五十銭の頃である。母親と何回もけんかをした。三円六十銭と今でもはっきり記憶している位であるから、余程くやしかったに違いない。とにかく、 二百余枚の鋸を全部捨てた。もしこの時、清吉が逆の決断を下していれば、現在の清吉はなかったかもしれない。
   (故)深沢達次さんの息子(養子)さんから聞いた話ですが、二百枚作ったのが弟の達次と三人の職人ということに対して
   ご本人は「私はこの時の製作には全く関与していなかった。」と、不満そうに強くおっしゃっておられたそうです。
   なお、深沢達次両刃鋸の売り物がありますので、ご興味のある方はこちらからお入り下さい。
このところで我々は如何ようにも美辞を重ねることが出来ようが、当の清吉の口から出てきた言葉は「家族を食わせていく為には長く売れる鋸をつくる。ただその気持だけでした。」という一言であった。
 翌年昭和二年五代目伊之助の娘タミと結婚。清吉とはいとこ同志である。
清吉二十二才、タミ女学校を卒業したばかりの十七才の時である。五代目伊之助か先ず清吉を見染めたということになるようである。

 戦時中は粗悪の資材と、それすら容易に入手出来なかったこと。しかも価格統制令のマル公でおさえられ、とうてい採算のとれぬ低価格でしかも量産せねばならぬという幾つもの悪条件に阻まれて、自己の作銘を打つ自信ある製品は作り得なくなり、殆んどの業者は無銘の鋸を作った。(「三条鋸の沿革」)当時、清吉も物価統制令違反で取り調べられている。他人よりも、たったの五十銭高く売ったからだという。

 その清吉も、この十年間、自分の思うように体が動かなくなり、実質的には息子清一の三代目が主体となっている。
 昼間は庭いじり、夜は謡いをやる。玄入はだしである。何人もの弟子を持っており、清吉の観世流の謡いは定評のあるところである。酒を一滴もやらないのだから、本寺小路などに通ったこともない。(注、本寺小路は三条の飲み屋街のこと)
「その点は安心でした。」とタミは静かに笑う。今年の十一月で金婚式を迎えた。清吉は照れくさそうにキセルの灰を火鉢にボンと捨てた。   金物ニユース(昭和52年12月15日号)

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