三条金物ニュースより

三条の職人 佐藤長一郎


 同じ題材を持つ絵画が作者によって全く異なった趣きを持つ。それが同時代、同じ統派であっても作者の個性;八生感によって異なった表現を生む。鋸においても同じ材料を用い、似たような工程を踏まえても全く異なる製品となる。
絵画とは違い、あくまでも道具として製作される鋸であっても名工といわれる人達の手造りの中にはそれぞれの創造と伝統の中から生まれる個性を持つのである。機械化が進む鋸業界の中で、手造りの個性を出しながら道具としての鋸を作り続ける佐藤長一郎鋸の素晴しさは何であろうか?

 後述してある経歴を見ても明らかなように微かな修業期間の内に自らの鋸を作り上げた点にあるのではないだろうか。最初の師である、伯父佐藤真治の所で修業して、二年目に、師は病気に伏し、師に代って売り歩いた。鋸の修業をしつつ、師の代りとして働いた長一郎にとって、鋸のすべてを短期間に学ばねばならなかった。最高の品質を備えた鋸を作る職人が、何人か居た当時、彼等に負けてはおれず、少しでも素晴しいものを作るため、日々研讃した。そのような熱烈な鋸に対する研讃と努力の中で、自分の鋸に対する考えを創り上げたのである。そこには熱烈な自己に封する自負、それを研ぐための人生感を育てていった。一般的な職人とは違った、鋸を作る以前の人生に対する哲学を身につけることを基とした点にある。

 大正デモクラシーという一つの時代の流れの中で青年期を過した氏にとって、鋸を作る以前の問題として、心に眼を向ける時間を自らに与えたのである。哲学・歴史・文学・絵画の書籍が壁いっぱいに並ぶ書斎の中で、氏は、自らの道楽は読書であると言う。  終戦後、三条に復員してから、他の鋸メーカーが、無印にて二流品を作っていたなかで、品質を下げることを意とせず、あくまでも戦前と同じ品物を作ってきたのである。

 昭和二十三年に「佐藤長一郎」の商標登録を取った。当時としては珍らしく、中屋の名を冠とせず、自らの名を取り、登録商標とした。 丹精込めて作り上げた鋸を、裸のまま世に出すことに忍びなく、鋸業界として、初めて一枚一枚袋に入れ、商品としての価値をさらに高めた最初の人でもある。
 鋸を作る自らを称して、「技術家」と呼ぶ。とことん自分で仕上げなくては気が済まず、手造りという工程を踏むのである。あくまで道具であり、実用品としてみる氏は、「鋸は「切れる」、「使いやすい』、 『長もちする』ことが一番大切である。」と言う。そのために、氏は焼入れ、火戻しに、もっとも力を入れると言う。

 現在、妻くにさん、後継夫婦、内孫二人の六大家族である。
 佐藤長一郎は一代にて終る。しかし、氏は「一代で終ることに少しも未練はない。」「将来への需要の裏付の不安定の中で、未来大きい若者に鋸を継がせる必要はない。」と言う。
 常に人生を、そして人間を、リベラルな考えの中で見ているのである。最後に佐藤長一郎氏の言葉を記す。
 『いつも同じでは停滞する。』

 以下、経歴を簡略に記す。(日本刃物新聞年鑑による)

 大正元年十}月七日、新潟県三条市ニノ町 佐藤長松の長男に生る。
 大正十五年三月、尋高卒十五歳で市内束裏館の鋸製造佐藤真治師は弟子入りする。
 昭和五年、五ヵ年修業。この年七月師の病死に遭い、志をいだいて現三代目高橋伊三郎師の門をたたき、約半カ年ほど研修を積む。時に十九歳。
昭和六年一月、更に吉田喜三郎師門下に入り満ニカ年研修する。
 昭和九年十二月十九日、市内二ノ町に独立開業する。時に二十三歳。現在地の西四日町に転住したのは昭和三十年六月。
 昭和十年三月、三条下町区鋸組合に加入。同年四月一日、渡辺忠遊君弟子入りする。現在林町KK渡辺工業所(渡辺辰造社長)の専務。
翌十一年四月に小日向文一君弟子入りする。現在荒町で営業。
 昭和十二年七月七日、工業組合法に基づく三条鋸工業組合生る。組合員約百十六名。組合評議員に選任さる。
 理事長高橋儀平、専務理事長野源造、会計深沢伊之助の諸氏ほかに理事四名と監事二名。
 昭和十四年八月、組合役員改選に伴ない理事に選任さる。
 昭和十六年八月三十日、召集を受け中支大陸方面に転戦する。
 昭和二十年終戦。翌二十一年五月二十四日復員。同年六月十五日自宅で営業再開する。小林健治君仕込弟子となる。彼は十年間氏のもとで修業し、現在四日町にて鋸製造経営。
 昭和二十二年四月、越後鋸協同組合設立する。理事長村山勇一、専務理事佐藤長一、理事池田善次同永井一太郎(故)の諸氏。  昭和四十八年二月、三条鋸組合組合長。(二期) 現在三条選挙管理委員。

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