第四回三条商人・その一 三条商人と行政の絆


(この一文は、新潟県三条市の産業と金物の発達について概略を解説したもので、雑誌「企業診断」(2002年7月号・8月号)に連載された「ニッポン商魂紀行」、「商いの心 商人の心」から引用致しました。)

                                                                 中村公哉(中小企業診断士・新潟県支部)
はじめに

三条商人は実利を重んじ堅実な商売を行う。新潟県の代表的な商人であるが、信濃川対岸の燕で実利よりも名声を求める商人が多いことを考えると、新潟県内の商人がすべて同じであるとはいえない。
この三条商人が成長し始めた一八○○年ごろは、米価の下落により様々な問題が発生していた。今でいう税金の役目を果たす年貢米の価値が下がり続けたことにより、各藩財政が急速に悪化していく。商業の発展により、農業従事者の農業から商業への転換という産業構造の大幅な変化を、幕府は規制する必要があった。当時の越後においても例外ではなく、越後平野という穀物地帯だけでは財政が持たず、新たな経済の柱を持たせる必要があった。産業構造の変化、価値の大きな変化という現代と似た時代に、三条商人を育成した当時の行政と商人の係わり、産業の柱の一つとして成長した金物産業を育成した商人について、二回にわたり紹介する。

商人の起源

三条は新潟県の中央に位置し、大河信濃川の中流に位置する。
三条が城下町であったことは、意外と知られていない。江戸時代に城の存在がなくなっていたことにより、知られていないのも仕方がないが、長尾氏・上杉氏・山吉氏・甘粕氏・堀氏・松平氏・幕府直轄と、江戸時代に入るまではその支配が頻繁に代わっている。その理由は、信濃川の中流にあり物資運搬の拠点であったことと、下田村を経て会津に向かう五十嵐川との分岐点であるため、江戸時代までは戦乱の中にあったからと考えられる。これらの戦乱は商人にかかわらず、三条の人々の人格形成に影響を与えたと推測される。
三条商人にかかわる史実は、永徳二年(二三八二年)の「権大僧都覚有一跡配分目録」という史料に「越後国三条七日市場政所左阿ミた仏引且那」という記事がある。今から六〇〇年以上前に三条に定期市があった記録である。しかし、前述のようにその後の戦乱から、永徳二年と現在の三条商人の性格は異なると考える。その後の記述はなくなり、寛政一〇年二七八九年)になる。

行政が行った三条商人膏成この年、米価の下落から殖産興業政策を拡大した村上藩は、三条役所管轄下の五ヶ組に、サトウキビの植栽を奨励し、強力な砂糖の専売を行った。この砂糖問屋に任命されたのが、青柳理左衡門である。この青柳が現在の三条商人につながる一人である。さらに米価が下落し続けるが、文化・文政期(一八〇四-一八三〇年)には町人の暮らしにゆとりができ、交通の発達などの影響から寺社参詣が盛んになる。この時代、新潟の外に目を向ければ、北前船で高田屋嘉兵衛が活躍し、伊能忠敬が大日本沿海與地全図を編纂した時代である。三条では、三条東本願寺(三条別院)の寺社参詣の賑わいがあり、自然と商業的な集落が形成できた。三条役所は、これらの商業都市育成のために諾事物静かにするようにいましめ、高利を貧る商売を禁じ、火の用心第一につとめさせた。青柳理左衛門と三条役所の史実から、村上藩が三条と三条商人を育成したことになる。またそれにより、三条が江戸後期における新潟を代表する商業都市に、なっていく。

商業育冑成政策と村上藩財政

年貢米の価値が下がったことに関連し、江戸時代に冥加金と呼ばれる雑税が、藩公認の商人から藩に納められるようになる、文化六年(一八〇九年)九月に初めて三条商人から村上藩に冥加金が納められた。その金額は、鶴屋源助が四五〇両、加藤屋重助、石橋屋市之助、帰り山屋長之助、石田屋由右衛門、大橋屋問右衡門、長谷川屋吉右衡門、成田屋伝吉らが各三八○両、その他を合わせて合計三四二〇両であり、現代の価値に換算すると四千〜五千人を一年間雇用できる金額である。更に、金額は変動するものの、毎年一千両以上の冥加金が納められている。
これらにより、藩財政が潤っているかと考えると、冥加金が課せられるようになってから二〇年後の文政一二年(一八二九年)一月の村上藩をみると、冥加金だけでは足りずに借財をしている。その借財は三条五ヶ組だけで三万八七九〇両、塩野谷(鶴屋)、加藤、石橋の三家はいずれも四千両以上になっている。四千両とは、三〇〇人を二十年問雇用できる金額であり、これら三条商人がいかに儲けていたかが想像できる。村上藩が三条商人を育成していなければ、幕末を待たずとも、村上藩は崩壊していたかもしれない。

これらの商人は三条だけで潤っているのではなかった。たとえば呉服屋であれば、京都からの仕入れになり、その販売先は近隣の長岡・寺泊に限らず、遠くは庄内まで船を利用し商いを行っていた。尾張藩と木綿払下げの紛争の記録もあることから、全国的な商いであったといえる。
また、質屋・米屋・酒蔵など事業の多角化を行うことにより、三条と村上藩に利益をもたらしていた。
現在の三条商人これら三条商人の血を受け継ぐ商人たちは、同じような産業構造の転換期において、行政と力を合わせて、取り組んでいる。平成三年に三条市は、商業活性化ならびに後継者育成事業として「さんじょう商人塾」を発足し、塾生である商人が自主的に協力し合い、様々な流通構造の変化に対応する取り組みをしている。また、財団法人新潟県県央地域地場産業振興センターでは、金物・洋食器などの地場産業振興のためのアクションプランを実施している。中小企業総合事業団中小企業大学校三条校では、企業経営に直結した先進的な教育を行っている。
二〇〇年を経た現代の三条において、再び産官の取り組みで産業の活性化を目指している。
三条商人の歴史から見て、産官の協力は、経済発展に不可欠である。

第五回三条商人・その二

実利を重んじ堅実な商売を行う
地場産業を興した三条金物商人

金物の街のはじまり

新潟県三条市は金物の街として、兵庫県三木市と並び有名である。交通が発達していない明治以前を考えると、京都・大阪という消費地に近い三木と、江戸から遠く離れ、山を越えて運搬する三条とは、立地条件で大きな差がある。特に重量物の金属を運搬するのであるから、その苦労は想像を絶する。
享保三年(一七一八年)徳川吉宗が改革に着手をしていたこの時期、拳大のくず鉄から一握りの家釘(和釘)を作り出したのが、三条金物のはじまりとされている。それから百年、金物行商人の成長とともに、さまざまな商品が作り出された。文政三年(一八二〇年)の三条往来にかかれている三条金物として、小刀・毛抜・針・ハサミ・包丁・カミソリ・刀・脇差があげられている。

石田利八にみる金物商人

金物商人の中で、石田利八の記録が多く残っており、彼の記録から当時の三条金物商人を推測する。
石田利八は、明治六年(一七六九年)三条の隣、新発田藩領地の百姓の次男として生まれる。
二四歳に三条の定明寺の寺男を半年問勤めた後に、村松屋石田左五衛門方に住み込み酒造り若衆として勤めた。そこで、実直を認められ村松屋の石田姓を名乗り独立を許された。その後、日雇いなどを行いながら金物県外行商人となる。日雇いは、森山五左エ門方などで、金物の荷造りや、上州、江戸まで荷物を運ぶ荷宰領(荷物を送り届ける人)を行ったようである。
石田利八という、三条金物商人を興した一人が、創業を行い、一代で地位を築き上げた起業家であったことがうかがえ、さまざまな職業を通して起業家に必要な教育が施されたことになる。
特に村松屋などの商家では、利八のような勤め人に教育を施すとともに、石田という姓を与え自分の信用を分け与えたことになり、森山方でも荷宰領を通して金物の知識や行商の知識を与えたことになる。それを支えるものは、利八の実直という信用があったからであり、何事にも積極的に学ぶ姿勢があったからである。
石田利八の行った県外の行商は、想像を絶する肉体労働であり、二十貫(七〇〜八○s)近くの重さの荷物を背負い、三条から五十嵐川に沿って、標高一〇〇〇mの峠を越える八十里街道を経て会津へ行っている。また、魚野川を上り越後湯沢を抜け標高一二〇〇mの三国峠を越えて上州(群馬)から江戸へ、さらに常陸国(茨城)、下総(干葉)へ、何度となく往復している。店構えの商人と異なり、行商人は屈強な肉体を持ち、よく日焼けした商人であったことが想像できる。

感謝の心と堅い約束

石田利八の記録から、
「常陸の国相馬郡中村の周蔵方で灯心を買出し、三年間もお世話になった。(略)その頃、周蔵殿から何か珍しい物はできないかと尋ねられたので、特別なものはできないが金物ならいろいろできると申し上げた。周蔵殿は鎌を出して、この通りの形で重さも適切で、切れ味も良いなら、常陸・下総に売り広めてやろうと親切に言っていただけた。(略)享和二年(一八〇二年)三月四日に、鎌一五〇、小刀、ハサミ、鋲少しを荷造りし、三条から常陸城中村まで背負って運んだ。周蔵殿は近くの村々に売ってくださり、本当にありがたかった」とある。
この記録は、六三歳の石田利八が当時を思い出して記したものであり、三〇年問取引先の恩を忘れずにいる。このように、収引先に感謝し、約束を守り、少しずつ取引先を開拓し、取扱商品を増やしていったことが推測できる。その取引先として、常陸、下総、武蔵の国で三〇件を超えることになる。

三条金物商人の組織化

石田利八を含めたこの当時の商人の功績として、鉄物仲問という現代でいう組合を作り出したことがあげられる。この時代に鍛冶職人の数が五〇から六〇名ほどに増えるとともに、金物商人も相当増えてきた。そのため、不当に安い価格で商売をする者、品質を落とした製品を作る者がでてきた。そのため、同莱者問で組合を作り、品質の維持と過当競争の防止を図ることが重要であった。天保二年(一八三一年)に「為取替申仲問議定証文之事」と呼ばれるものを、神田半右衡門、石田利八、加藤文次郎、鈴木乙蔵、小師仁四郎、吉井吉有衡門、山田藤兵衛の七名が鉄物仲問として作成している。
議定証を要約すると、次の四点からなる。
一、職人が他の商人に売り込むことを規制する。
二、県外の取引先から不払いがあった場合に、仲問で情報を共有するとともに、仲間一同で取引を停止する。
三、職人に品質管理の指導を徹底する。 四、県外取引の道中の安全を図るため助け合う。
また、江戸鉄銅物問屋との書簡のやりとりの記録もあり、三条金物の発展のために、広く交流を行っていた。
三条が金物の産地として存在するのは、これらの鉄物仲問の存在によるものである。また、七名の鉄物仲間が、現代において約三〇〇社の組織である三条金物卸商協同組合まで発展している。

三条商人に学ぶ

現在の三条商人の印象として、「真面目、勤勉、義理堅く、堅実、高い判断力」ということを感じている。石田利八の記録にみられるように、二〇〇年続く、二条商人の気質である。
産業構造の転換期においては、一人一人が実直であるとともに、企業取引を通じてお互いが力を合わせることで、新たな起業家、未来の商人が生まれるのだと痛感する。
また、同業が力を合わせ、事業を発展させることが、三条という地域ブランドをより強くするものと考える。


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