三条金物ニュースより

三条の職人 第一回 大場正一郎


明治三十二年一月十日、車引きの父の長男として生まれる。彼にいわせれば「個人タクシー会社の社長」である。
小学校の卒業式の二日前に五十嵐万吉に弟子入りをする。一分厚の蒸気板を大槌で打ってのばしている時代である。大場によれば、その頃、鋸鍛冶が三条で百軒位あって、万吉の他には、伊之助、清吉、伊三郎、富造、馬太郎等が有名であったという。又今のようにサクを切ったものは、例え万吉でも問屋には歓迎されず、無印で出した方が高く売れた時代である。

大場が自分の腕に自信らしきものを持ったのが満十五才の時というから、修業を始めて二年そこそこで鋸作りを一応習得したことになろう。努力家である。
大場正一郎が五十嵐万吉の下で腕を磨いた期間は約十年である。

十八才の頃から彼は、玉鋼の修業に出たいと思い始め、年期の明ける二十一才の頃の計画を真剣に、考え悩んだ。然し、経済的にさほど恵まれていない大場家の長男としては、おいそれと三条を離れ、修業に出られる程の身軽な状態ではなかった。礼奉公を終え職人として初めてもらった給金が十円であったが、ニケ月後すぐ倍の二十円になっていた。
もはや一人前の鋸職人になっていたのであり、大場家にとっても必要な人間であった。彼は修業に出ることをあきらめ、三条で身を立てようと決心する。
そこで彼は九尺二間の古屋を借り、建て直し、住居兼仕事場をつくり、「大場正一郎」の鋸を作り始めるのである。大正九年九月のことである。

関東大震災の年(大正十二年)の春上京し、東京の問屋二、三軒まわり、鋸を見せた。そしてある有名な間屋が一枚二円四十銭で買ってくれた。それも無印ではなく、中屋正一郎と切った鋸をである。
大場の鋸が名実共に世に出たわけである。自信を得た大場は震災後の復興ムードで景気の良い三条の問屋に直接売るようになる。

大場が万吉に弟子入りをして数年後、秘かに神明様に願をかけた、「大場の鋸を有名にしてくれ」と。
大工道具、殊に高級高価なものになればなるほど、名前で売買される。有名な道具は細かく検品されなくとも、云い値で問屋は買う。 逆に無名のものは、如何に品質が良いと強調しても、問屋にたたかれてしまう。大場はそれを良く知っていた。それで願をかけたのである。

全く無名の大場である。真剣であった。この初心は現在でも貫き通されている。今でも毎月一日と十五日には神明様、曰吉神仕、居島の稲荷様の御参りは忘れたことがない。雪が降れば家族の手を借りても欠かさないそうである。

昭和三年十一月、御大典奉祝名古屋博覧会で鋸の部門で褒状を受ける。昭和六年九月、長岡市主催上越線全通記念博覧会で入賞し、三条鋸界の若手ホープとして注目され始め、彼の一層の励みとなった。
昭和十年十月、三条金物同業組含二十五周年記念品評会で第一等に選ばれた頃から、世の中が好転し値が当時四円五十銭だったという。
昭和十七年三月、長男政弘が高等小学校を終え、鍛冶場に入る。
在学中から目立など否応なしに手伝いをさせられていたから、卒業の頃には、いっぱしの職人であった。しかし、二年も経たぬ昭和十九年一月には徴用に取られた為、本格的な大場親子の共同作業は終戦を待たなけれぱならない。

大場の鋸は手仕事でやる工程が非常に多い。だから生産数量も月数十枚と少ない。このことから、大場は機械に疎いのかといえば、決してそうではない。事実はむしろ逆である。
戦時中、金工試験場のレースを使い、バフで仕上げたこともあった。又、ソルトで焼き戻しをしたこともあった。これらの試みは決して他業者よりも遅かったわけではない。時代の先端をいった時もあったのである、色々な新しい試みをしながら、今は昔ながらの手法にたよっている。機械を入れないのは、確かに経済的理由もあったろうが、機械研磨では、鋸の表面が焼ける為地肌が出ない。その為には銑が.番良いという持論と、機械を導入したからといって、自分の思った鋸がそれだけ多く出来るとは限らない。今のやり方で作った鋸を皆んなが、大場正一郎の鋸と名差しで注文してくれたのであり、今も又、将来も同じだろう。違った作り方をすればそれはもはや「大場正一郎」ではなくなってしまう。大場はそう考えた。これを職人気質というのだろう。

その大場も老いてしまった。体の調子の良い時は仕事場に出るが、大部分の仕事は長男政弘がする。
大場の鋸は又大場政弘の鋸でもある。今では、三高卒業の孫の正啓が仕事場に入っており、大場鋸の重要な部門を受け持っている。大場の鋸は昔も今も家族総動員で出来る鋸である。今年第一回吉田五十八賞の特別賞に大場の鋸が選ばれた。これは真に長年にわたる大場正一郎一家の汗と涙の結晶であった。(金物ニュース昭和51年11月1日号より)

上記の記事を掲載した金物ニュースというのは、三条市の商工会議所に所属する金物問屋の団体「金物卸商組合」の月刊の新聞で、この記事が書かれた昭和51年頃、私が編集委員でした。

三条の職人さんを取材して「三条の職人」というコラムを連載しようと言う事となったのですが、丁度、優秀な新入編集部員が入ってきた事から彼らに書いてもらうことになり、第一回のこの大場正一郎さんと二回目の永弘さんへは私が同行しました。
この記事はOさんが書かれたものですが、私が一緒にいて聞いていた中で、次のことが印象に残っています。

独立した時に古家を借りる時、大場さんの姉妹に精薄の娘さんがいたそうてなのですが、家主がその子が火でも点けるのではないかと心配して、なかなかうんと言わなかった、と語られました。その時、無念さを思い出されてか涙ぐまれていたのです。
その時の、今に見ておれ!との意気込みが、その後の意欲にもなったのではないかと私なりに感じられました。

また、当社が注文した品物を催促に行った時に、仕事場で大場さんから聞いた話ですが、仕事が難しいと言うお孫さんに、言うとはなしに次のように言われました。
「俺は親方から聞いた通りに(仕事を)しているんで、なんでもむつかしことなんかない。」

最近は両刃鋸は替刃式鋸に市場を奪われてほとんど売れなくなりましたが、偶に、大場正一郎の鋸が欲しいとの問合せがあります。
3年ほど前でしたでしょうか、品物が出来ないでしょうかとお問い合わせしたところ、「しばらく出来ない」と言われたのが、昨年にお聞きした時には、鋸の製作を完全に辞めたと言われました。
初代は既に亡く、二代目もご高齢で体の具合がよくないご様子でしたし、上の記事では仕事を手伝っておられたお孫さんも他の事業所に勤めに出ておられると聞いています。 (14/1/3記)

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