奥出雲でたたら操業
3昼夜の苦闘いま再び

日本刃物新聞14年2月20日号より

八岐大蛇伝説に彩られ
砂鉄と木炭と土の炉の物語

出雲風土記の舞台である島根県横田町大呂の鳥上木炭銑工場(現ワイエスエス)は、古来の製鉄技法を今に伝える我が国唯一の設備。(財)日本美術刀剣保存協会(日刀保)により、今日でも、八岐大蛇伝説に彩られた奥出雲で、たたらが息づいている。
今年も一月三十一日から二月二日までの三昼夜に掛けて、砂鉄と木炭と土の炉による”たたら吹き”の技法が行われることになったという連絡を、地元の友人、稲田治夫氏から頂いた。積雪六十センチの出雲を目指して出かけた。

全神経を注ぎ玉鋼を造る
勘がものいう管理作業

たたら製鉄は約七十時間の操業であり、その間に砂鉄十トン、木炭十二トンを使い、それを交互に炉へ入れて拇を作り出す訳である。この時の炉の中の温度は約千五百度以上にもなっているという。ここまで火力を上げるのには、勢よく空気を送り込む必要がある。理屈でいうといとも簡単であるが、なかなか思うようにはいかない。
 まず炉の管理で、村下が一番気を使うのは、炉の長辺の下部に扇のように広げた左右二十本づつ計四十本ある送風菅のすぐ上にある″はど穴″と呼ぶ直径三センチ位の穴である。村下は その穴から炉内を覗き込んで様子を見る。炉況が良いと、マグマのように溶けた鉄が直視できないはど光輝き、穴が直円に見える。逆に不調な時は、穴に溶解物が付着してし事つ惧(おそ)れがある。穴が塞(ふさ)がらないように"ほど突き″と呼ぶ細い鉄棒を差し込んで、付着物を取り除き、竹を直円に保った作業を怠りなく続ける。
 炉から上が番炎の色を見極めながらの勘を働かせる管理作業である。もしも送風が弱いために炉内が赤黒く見えると、忽(たちま)ち穴が塞がってしまい、それが隣接の穴にまで波及し、ついには炉の全(すべ)てがだめになるという。
 だから"はど突き″を差し込んだ時、鉄棒の先端に付着する鉄、鋼滓(こうさい/砂鉄の屑)などを観察し、炉内の状態を判断する。

右図説明
炉の大きさは上部内法長さニメートル七十センチ、幅同九十五センチ、高さ一メートルニ十五センチ。外壁から見ると裾は広<築かれている。
そして内部構造を見ると炉幅が狭く、底は十五-二十センチのV型状となっている。底部に最初、ケラの核ができ、炉の内部の厚みのある所の土
を浸蝕させながらケラはどんどん大きく育つ訳である。


常に変化する炎の勢いや炉内の音を聞き、即座に見極め、少しでも障害があれば手速く修理を図るために、全神経を使うことによって玉鋼を造り出す訳である。
 村下はほど突きをし、炉から出る炎を常に監視しながら、三十分ごとに一杯四、五キロの砂鉄を平均四杯、木製の平べったい大きいシャベルで炉にサラサラと落とし込む。代行と二人で約千四百杯、十トンの砂鉄を炉へ入れる訳である。
炉から砂鉄塵場の″粉鉄町”まで約八メートルの坂、その間を三昼夜往復するのだから、体力がなければできない。砂鉄の挿入が終わると、村下の合図で二人の″炭焚職″が炉の右端の炭置場から″炭取り″という竹箕(たけみ)に一杯分一・五キロの炭を六杯分づつ入れる。
炭は予(あらかじ)め拳位の大きさに小割してあるものを炉壁へ沿って入れたあと、木製の″炭えぶり(ナラの木で造った長い柄の先に板が着いた道具)″で押さえる。  入れた炭が三十分後に燃焼して二十センチ位下がると、合図で炭の上を軽く押さえて平らにならす。これで次の砂鉄挿入の準備が終わる。三十分ごとに砂鉄と木炭を挿入するといった繰り返しを三日三晩続ける訳である。こうした操業がヒ出し寸前まで行われる。ーでさらに拳大に割る。その間、鉄に食い込んでいる炭や鉱浮を丁寧に取り除き、破断面の色、粒子の形状などで炭素量を鑑定し″玉鋼″一〜三級目白″″銑″など八段階に分け、全国二百五十人の刀匠へ送り届ける。
 こうした玉鋼を造り出す卓越した技術と勘を持つ″村下″は昔から神だったという。
 村下である木原明氏は、以前近代的な手法で玉鋼を試みたことがあるという。
しかし、計算通りに巧くいかなかった。千年以上も昔から築き上げた″たたら″のメカニズムの解明は、現代科学でも不可能であると断言する。「人間の感性は磨けば磨くはど素晴らしい勘が働き、炎を見続けることができる。炎に神の存在を感じる」と同氏が語ったことは印象的であった。

入間廣條を超越した凄い世界
12名の魂がひとつに

一月三十一日の夕方、雪の奥出雲の鍋(けら/鉄の塊)出しの現場へ辿り着いた。大きな鉄骨造りの内部に炉は築かれていた。シャッター脇の小さな扉を開けて中に入いると、中央、高い所の炉からは、幅広の炎が炉一杯に舞い上がり狂っていた。その炎の熱と火の粉を全身に浴びながら、苛酷な作業をしていられる文化庁の選定保存技術者、村下(むらげ)の木原明氏(六十五歳)が目に止まった。
村下代行を務めている渡部勝彦氏(六十一歳)外十名の養成員、二十代二人、三十代二人、四十代五人、五十代一人といったメンバーの魂が触れ台い、一つになって、村下の指示で経験と勘の世界を身体で憶え込もうと、汗を流してケラ作りに取り組んでいる。
こうした姿を見ていると、今の日本社会の仕組みの中でのドロドロとした人間関係を超越した凄い世界もあるものだと感心する。
嘗(かつ)て西岡常一棟梁の「塔造りは人の心組である」と云った言葉が頭を過(よ)ぎった。

数多い風送りの苦労
4基の大型輔を稼働させ
・・・物悲しい音と共に

炉の隣にある別棟には四基の大きな鞴(ふいこ)が稼働している。江戸末期から明治に掛けて導入された水車吹子の原理を応用したものである。鞴はもともと″吹皮″つまり狸の皮で作った送風器を表す文字。今でもアフリカやインドネシアの先庄民は、鞴に動物の皮を使っているから面白い。
明治以前のたたらの送風は、天秤(てんびん)鞴という足踏み式の鞴が用いられている。記録によると元禄四年頃考案されたらしい。歌舞伎役者が花道をタッタッと走って来て、力が余って″空足″を踏むとたたらを踏んだという。まさにそのスタイルで″番子″は長時問の労働をしていたのである。
話は横道に逸(そ)れたが、四基の鞴の送風は七・五馬力のモーターで動かすクランクの往復で行う。ぺースは一分問に十二〜十三回位。吹子操作は村下の指示によって動かしている。
「吹子のピッチが遅いと炉内の反応が良くない。速過ぎると銑鉄(鋳物の材料とか包丁鉄の原料に使用する。炭素一・七%以上のもの)となってしまう」風送りの苦労はあると聞く。 四基の鞴小屋から聞こえ続けるきしみの音は、小狸が親を求めて泣いているかのようにウォーン、ウォーンと物悲しい、淋しい音を響かせて稼働していた。

高熟と闘いクライマックス
炉の中央に真赤な鋼

二月二日の早朝、宿から眠い目を擦(こす)りながら五時に行くと、炉壁は高熱で溶けて浸蝕され、炉の耐久性が限界に達する。「これ以上操業すると炉が崩れる」と村下は判断する。砂鉄や木炭の挿入をストップし、暫(しばら)くしてから送風も止めた。出入口となっている裏と表の大きなシャッターが開けられ、湯が沸騰するかのように鉄が煮えたぎっているため、暫く炉温が下がるのを待つ。その間に、無事ケラがでさたことを、作業場の上に祀ってある金屋子神社へ報告してから見物者にまで祝杯が渡る。誰もが喜び合い神様に感謝する一瞬である。″ケラ出し″に使う丸太のコロや道具を準備する。
いよいよ炉の下にできたケラを取り出すために、炉を取り壊し引き出す作業にかかる。
村下、養成員が高熱と闘う炉操業のクライマックスである。まず送風装置を外し、炉の基底部の壁へ鉄の突き棒で切り込みを入れる。炉を壊し易くしておいて、次に両側の″天秤山(炉の両脇にある送風調節する土で盛り上げたもので、嘗ては天秤鞴のあった場所)″の上から六メートル位の長い鉤を差し出して上釜、中釜、元釜と順に炉を引き崩す。壁土は直ちに屋外へ運び出し、炉の中央にケラが真赤に燃えて現れる。その問見学者の我々も、茫然と火の芸術品に見惚(と)れたままである。
村下や養成員全員は挨(ほこり)と汗で真黒であり、火の輝きで顔の汗がよりコントラストして魅力的である。
一時間ほど冷却した銀、約三・五トンの一方をチェーンブロックで吊り上げ、下端(したば)ヘナラの太い丸太のコロを押し込む。
赤く溶けた鉄の雫がボタボーでさらに拳大に割る。その問、鉄に食い込んでいる炭や鉱澤を丁寧に取り除き、破断面の色、粒子の形状などで炭素量を鑑定し″玉鋼″一〜三級″目白″″銑″など八段階に分け、全国二百五十人の刀匠へ送り届ける。

こうした玉鋼を造り出す卓越した技術と勘を持つ″村下″は昔から神だったという。 村下である木原明氏は、以前近代的な手法で玉鋼を試みたことがあるという。 しかし、計算通りに巧くいかなかった。千年以上も昔から築き上げた″たたら″のメカニズムの解明は、現代科学でも不可能であると断言する。「人間の感性は磨けぱ磨くほど素晴らしい勘が働き、炎を見続けることができる。炎に神の存在を感じる」と同氏が語ったことは印象的であった。







左の写真説明
椛O場資料館(〒243-0034神奈川県厚木市船子五九六/電話046-228-6644)の前場幸治館長といえば大工魂を守り、伝える貴重な存在。
本業の合間に多数の著作をこなす才人だ。昔気質の気骨ある個性は、こんな時代だからこそ光り、周囲を明るくするパワーに溢れている。このレポートも忙しい社業の中、時間をみて、共に元気を出せる仲間、刃物工具業界有志へ価値あるメツセージを贈ろうと書き上げてくれた。日本刀の材料としていつしか造られるようになった玉鋼。
その製法をそのままに残すため、心血を注ぐ人々の壮絶な想いを、強く行間に湊ませる言霊が続く。
たたらの炎は、前場館長の生きざまとも響き合い、小さく共、絶えることない共感を呼びながら、雪の島根で確かに息付いていた。


ホームページへ

inserted by FC2 system