鋸研ぎ60年磨かれた技 ◇経験を理論化し国内外で評価される技術を広める◇

                     長津 勝一
この記事は、日本経済新聞(H27/7/22号)より転載しました。

 皆さんは学校などで鋸を使った時、ギザギザの部分を「歯」と教わった記憶はないだろうか?
紀元前には木にサメの歯を埋め込み、鋸の代わりにしたこともあるようだが、21世紀の私の認識では、これは「歯」ではな く「刃」である。
 「刃」である以上、切れ味が鋭くなるよう、きちんと研がねばならない。私は60年にわたり鋸研ぎ(目立て)の技術を 磨き、理想の鋸を追求してきた。
 私は1933年に北海道旭川市で生まれ、15歳で地元の大工道具販売及び鋸目立て業に弟子入りした。当時は戦後の復興 期で建設業が盛ん、大工の需要が高まっていた。
師匠に学びながら鋸を研ぐかたわら、どうすればより切れるようになるか、自分で考えるようになった。
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 お客様にヒントもらう 53年、20歳の時に独立し、師匠の教え通り、大工道具販売及び鋸目立て業を開業した。鈷は用途 によって様々な種類があり、研ぎ方が異なる。また、同じ鋸でも研ぎ方を変えて用途を変えることができる。針葉樹、広葉樹、樫、黒檀、竹、桐といった、各樹木に合わせた専用の鋸、木と釘を一度に切る鋸といった具合にだ。
 私に新しい研ぎ方のヒントを与えてくださるのは、常に仕事を持つてこられるお客様だ。様々な要望、難題に応えようと 工夫するうち、おのずと技術を確立していった。56年には札幌に店を移し株式会社「長勝」を設立。会社は成長し、職人・弟 子合わせて7人で鋸を研ぐ盛況ぶりだった。
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 海外からも講義依頼
 だが80年ごろから道内の建設業は悪化し、倒産に次ぐ倒産。そんな折、旭川の友人が静岡県伊東市に行くことになり「お まえも行かないか」と誘ってくれた。私の店は盛況だったが、倒産に陥る前に店をたたむのが贅明、だと判断し、移住を決め た。閉店となると売掛金はほとんど回収不能になる。一方で借入金、振出手形、買掛金などは返済しなければ店は整理できない。その苦労は経験者にしかわからない。
 伊東で再び開業した後は、鋸に関する講演の依頼が方々からくるようになった。2007年には、ドイツのニーダーザクセン州ミユッチンゲンに高さ6b、幅7bの鳥居を建立するというユニークな計画にかかわった。
 日本のほかドイツ、チェコ、イギリス、フランス、ベルギーなどの職人ら40人余りが参加したプロジェクト。伝統的な道 具だけで建てたいので、鋸研ぎ打指導をしてほしいという。再三の依頼を受けてドイツを訪問。これを機に前記の各国へも たびたび指導に行き、欧州で私の技術は高い評価を得ている。

 10年には東京芸術大学美術学部の集中講義に講師として招かれた。これだけ依頼が来るのは、鋸研ぎを理論化した人が私 以前にはいなかったからだろう。
 私の理論は研ぎに対する基本、思想がこれまでとは違う。従来は、ガツガツ引っかかるものを力いっぱい引いて使うのが 鋸だ、と一流の棟梁ですら考えているところがあった。だが、私は道具というものは、いかに労力を軽減してよい仕事をす るかが重要だと思っている。その目的を掲げるからこそ道具の進歩もあるのだ。
 私が考える理想の鋸とは、軽く挽けて切れが良く、切り口が滑らかできれいであ冬切れ味が長く持続する。鋸板の調整 によってより挽きやすく変化する・・・など、5拍子も6拍子もそろわなければならない。
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 伝承のため弟子抱える
 11年1月には、伊東から文化財の宝庫である京都市に移住し、自宅兼工房「長勝鋸」を開業した。
大工、家具、造園業など、木に携わる方々の信頼を得て、京都だけでなく全国から仕事を任されている。工房では年間に千丁 を超える鋸を研いでいる。海外からも注文をいただく。
 近年は大工鋸から細工用導突に至るまで、改良刃(窓鋸)に直している。縦・横・斜めによく切れ、切り口も滑らかで革新配との評価を得ているこ 工房では2人の弟子がさらなる高みを目指して精進しており、幸い技術の伝承も進みつつある 82歳の私もまた、命の続く限り現役を続け、顧客と向き合って喜んでいただける仕事をし、社会に貢献レたい。これが最大 の幸福である。(ながつ・しよういち 長勝鋸経営)

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