日本刀と私

この記事は三条金物青年会発刊の岩崎航介遺稿集「刃物の見方」から引用しました。
岩崎航介さんが優れた刃物を造る目的で日本刀の製法の研究に入られた人生について、解かりやすく書かれている記事であると思っています。
                                                                                          岩崎 航介
  刀鍛冶を求めて

私の家は新潟県三条市にございまして、有名な刃物の産地で、今でも市内に従業員全部で、一万五千人位おります。
工場が約二千軒位あるんです。私の家はそこで代々刃物の問屋をしておった訳なんですが、父親の時、第一次世界大戦の時、欧州から輸出されていたドイツ品、イギリス品が来なくなったものですから、其の隙に乗じまして、東南アジア、それからアフリカ方面に、刃物と南京錠等を輸出していたんです。
所が第一次世界大戦が済みますとドイツが巻き返しに来まして、特に激しい競争をやりましたのはインド市場なんですが、結局大正十一年に三条の方のナイフは全滅して了ったんです。其の時父親は残念乍ら財産が左前になりました。

私は丁度その大正十一年の三月に、旧制新潟高等学校を卒業しまして、三条の家へ入って、兄と一緒に父を助けたのです。併し私は三条の工業特に刃物と云うものを見まして、此の儘では絶対にドイツには勝てない。狙いは日本刀にある。それは我国には六百五十年程前に、五郎入道正宗という名工を出したのを始めとして、江戸時代の中頃には長曽弥の虎徹(ながそねこてつ)、末期では山浦清麿(きよまろ)と云う様な人々が出て、世界一の刃物である日本刀を造ったんです。此の切味が万邦無比だと云う様な事は、外国人も日本人も等しく認めている所なんです。

此の日本刀の秘伝を調査して、それを応用して、ナイフ、剃刀、小刀(こがた)、鋏類を造れば、ドイツの刃物の如きは、何んの事かあると、ここで一つ父親の仇討ちをしてやろうと云う決心をしまして、当時年齢は十九歳と三ケ月でした。鎮守八幡宮に参拝しまして、三十年の計画で此の研究を完成させるから、どうか一つお守り願いたいと、そう云う願をかけました。

最初私は鎌倉へ行きまして、永野才二と云う先生に従って、日本刀の研ぎを学びました。研ぎ方を先にやったのです。それから正宗二十三代の山村綱広(つなひろ)と云う方がおられましたので、そこを屡々訪ねて、御話を伺いましたが、まだ入門すると云う所までは行かなかったんです。そこで私は考えまして、これは唯刀鍛冶の所へ行っただけでは話にならんと、これは矢張り学問というものを基礎にしなければならんと、そこで私は、旧制新潟高等学校の文科乙類の第一回卒業生ですが、今の東大の文学部国史学科へ入って、日本刀の秘伝書である古文書を読む学問を学ばねばならん、そう考えたのです。

運の良い事に、鎌倉の傍に逗子という町があります。其の処に私立逗子開成中学と云うのがあり、其の校長さんが岡里三善(みよし)という海軍少将で、旅順閉塞隊の広瀬武夫の親友でした。其の校長が変わり者でして、自分を此の学校の先生に傭って呉れと申し出たんです。そうして結局傭われまして、三日間中学の先生をするんです。三日間は大学へ通うんです。今と違って出席を取らないんです。試験さえ通ればよろしいんです。今の人には三日中学の先生をして、三日大学へ通うと云う様な、両棲動物の生活は出来ない訳です。そうやって目出度く三年で国史学科を卒業しました。それから今度は、日本刀の製法と云う物は科学的に研究せねばならん、現代科学でやれば、五郎正宗の刀なぞは直ぐ出来るだろうという訳で、今度は工学部冶金科へ入ろうとしたんです。

所がドッコイ駄目なんですね、高等学校の理科を卒業した人と一緒に、入学試験を受けろというんです。已むを得ませんので、微分、積分、物理、化学などを独学でやらざるを得ないんです。源頼朝だの、楠正成を相手にしていた奴がね、今度は微分だの積分等ですから、辛かったです。併し何年かやった結果、入学試験を突破しまして、工学部の学生になって三年の時の卒業論文は、「日本刀の鍛法」と云うのを出したんです。それから大学院で五年勉強しました。結局学生生活が東大だけで十一ケ年、三十六歳まで金釦をはめて通ったのです。其の時結婚していまして、女房子供がおりました。其の後副手という役職にして貰って、数ケ年東大で研究しました。昭和二十年に三条へ戻って来た訳です。そうして今度は三条で刃物を造る研究をしたのです。其の間に、私は全国の刀鍛冶を捜索しまして、一体刀鍛冶は全国で何人残っているか、どんなウデを持っているか、それと刀鍛冶の子孫というものが、どれだけあるんだろう、その子孫の家に、どんな秘伝書が残っているんだろう、こう云うのを文学部に在学中から、捜索し続けていたのです。今日も尚続けているのです。
昨年発見された秘伝書があります。それは新潟の鍋茶屋の跡継ぎの方が、高田市で見つけて来て呉れた秘伝書があるんです。是は全国で五十三番目の秘伝書なんです。そんな事でどこから、いつ現われるか判らんので、調査の手はゆるめる訳には行かんのです。そうやって刀鍛冶の家に伝わっている秘伝と、秘伝書に書いてある秘伝と、是に工学部治金科で学んだ鋼の知識を加えて、やれば、天下の名刀が出来るだろうと、此の予定を一歩々々進んで来まして、遂に昭和二十六年、八幡宮に約束した予定の満三十年が来ました。

そこで通産省に研究補助金助成をお願いしまして、其のお金を貰って翌昭和二十七年、三条で工場を造って、愈々目本刀を利用した刃物の製造に入った訳です。
私はね、最初に、刀鍛冶捜索の手をつけましたのは、当時九段の靖国神杜の中にあった中央刀剣会に行きまして、現在生き残って刀を造っておる刀鍛冶は誰と誰ですかときいて、其の住所を調べ、早速本人を訪問したのです。それを終わってから、宮内省へ出かけて行き、御大典の砌、御祝いに刀を献上した刀鍛冶がいるんです。大体御大典の際には、一般国民からの献上品は、宮内省は受けないのです。
ただ例外として刀鍛冶が、自分で造った刀だけは、嘉納すると云う習慣があるのです。それだけ宮中に於いては、刀鍛冶と云う者は別格の取扱いなんです。それで誰と誰が献上したかと云う事が、直ぐ判るんです。十何名かおりました。

其の中の一人に熊本に延寿太郎宣繁(えんじゅたろうのぶしげ)と云う人が書いてあるんです。それで熊本へ訪ねて行った所が、村へ行きましても判りません。それで村役場へ行って村長さんに会って、
「実は此の村に、延寿太郎宣繁と云う刀を作る名人が居るが、家が判りません、どこでしょうか。」
ときくと、村長は、
「サー、えんじゅ太郎のぶしげ、きいた事が無いナ。」
と答えると、傍に居た小使さんが、
「村長さん、役場の隣で、鍛冶屋をやっているあれがその刀鍛冶なんです。」
と云うのです。
喜んで其の処へ行って見ると、藁で作った屋根、それに藁で造った壁なんです。火が点けば燃えて了います。
そんな小屋で延寿太郎宣繁という、七十歳の老人が十文字鎗を造っているのです。いやビックリしました。当時、十文字鎗の製法は断絶したと思っていたのです。有名な加藤清正の朝鮮征伐の時の虎退治の話があるでしょう。
あれが十文字鎗です。鎗術の方に宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)の十文字鎗があります。
私はその使い方を水戸の池原と云う先生の所で学びまして、聯か宝蔵院流の鎗を使うんです。勿論試合などした事はありません。刀なんて云う物は、広場では之に掛ったら一コロです。問題になりません。ですから賎(しずが)岳(たけ)の七本鎗と云う事はあるが、七本刀と云う事はありません。先頭切って敵陣へ飛び込んで行くのは、鎗に限るんです。だから一番鎗と言うんです。だけど今の大衆小説家は鎗よりも刀の方が強くて、鎗のケラ首切って落としたなどと云うんだが、切れる物ではないんです。本当はね。大衆小説家と云うものは実戦を知りません。だからこんな事を云うのも無理は無いんです。

延寿太郎宣繁先生を訪ねて、私は、
「貴方はどう云う積りで、宮内省へ刀を献上したのですか。」と訊いたらね、
「私は一生涯かかっても、天皇陛下のお傍へ行く事は出来ません。私の身代わりに自分の鍛えた刀を献上したんです。」
「うち見た所、御弟子さんがおらない様ですがどう云う訳で弟子はおらんのですか。」
「御承知の様に今刀を造ると、一本も売れません、従って平素、私は医療用の刃物を造っておるんですが、御医者様の刃物を造って、儲けた金で刀を造ります。造れば貯金がゼロになる、そうすれば貧乏する。そう云う貧乏な生活を私の弟子にさせたくないのです。それで弟子はとりません。」
「それじゃ先生、貴方の十文字鎗の製法を始めとして、延寿太郎宣繁の秘伝は、断絶します。」
と云いましたら、沈痛な顔をして、
「エー、その絶えるのが誠に惜しいと思う。」
「それじゃ、私は大学の学生なんです。こうやって来たのですから、私に秘伝を教えて呉れませんか。」
と頼んだ所、喜んで、
「よう来て呉れた、それじゃこれから全部の秘伝を教えるから、帳面を出してお書きなさい。」
感激しまして、私はその話をドンドン速記したのです。日の暮れるのを知らずと云うんでしょう。そうしたら、わきの方に九十いくつのお父さんが病気で寝ているんです。私はそれを見て、帰りにね考えたんです。

此の十文字鎗の秘伝を唯一人知っていて、日本の伝統を守り統けている人が、九十いくつのお父さんを病気にして、自分は壁もない鍛冶場で刃物を造っている。何とか此の人を助けねばならない。どうすればよいかと、色々方法を考えて、バスの中で思わずポロポロと涙を流した事を覚えております。
そうして一つの文章を書いて、「福岡日日新聞」へ投書したのです。出ましてね、それは、「こう云う延寿太郎という名工がまさに埋れようとしている。此の伝統を守る誰かがね、広い九州の中にいないか。そうして此の秘伝を守って欲しい。」
と書きましたらね、熊本市の傍に八代(やつしろ)という町があります。八代町の外に宮地という村があります。此の処に盛高靖博(もりたかやすひろ)と云う青年の鍛冶屋がおりまして、此の人が名乗り出たんです。
此の家は、「太平記」にも出て来るんですが、菊池武光(たけみつ)などと一緒に、筑後川の戦いで、足利尊氏の軍勢と一戦を交えた刀鍛冶の、金剛兵衛盛高(こんごうひようえもりたか)の末孫なんです。家系として約六百五十年続いているんです。それで子孫は、金剛兵衛盛高の盛高を姓にしまして、今は盛高靖博と云うんです。金持でして、普通の刃物を造っている家なんですが、これが延寿太郎宣繁を訪ねて、「先生、私の家へ来て鍛法を教えて下さい。藁の壁じゃ、とても火が点いてダメです。」
それで自分の家へ老先生を迎えて、自分の家の弟子を集めて、非常な待遇をして師弟の盃を交わしまして、今では盛高家に十文字鎗の伝統が残っております。
そうですな、私が大学の文学部の三年頃ですから、ハッキリしませんが、それでも三十年位前ですか、そんなですね。

刀鍛冶の伝統

当時昭和の初期に刀を造って商売った刀鍛冶は、三人しかおりませんでした。一人は宮内省の御用の伝統掛かりだった大阪の月山貞勝(がっさんさだかつ)、二人目は東京に住んでおって、大正天皇様の御即立記念に刀を献上した笠間繁継(かさましげつぐ)、三人目は、北海道の室蘭市の日本製鋼所で刀を造って居りました堀井俊秀(ほりえとしひで)、此の三人だけは刀を造って生活ができたんです。あとの人は刀では生活が出来ませんでした。
其の中でも広島県の福山市本庄町に小林宗光(むねみつ)と云う名人がおりました。師匠は桜井正次と云う方でしたが、正次さんは十二人弟子が居たが、此の人一人だけ物になつたといわれていた。宗光は平素は池の坊の生花鋏を造っていました。お金が溜ると原料の炭と鋼を買って刀を造っていた。全部無くするんです。或日奥さんがね、
「そんな事をしていたら、一生涯貧乏する。」と小言を云ったら
「私の所へ嫁に来ていて、刀を造るのに文句を云うんなら、直ぐ離縁して呉れ、以後一生涯、日本刀を造るのに対して、小言を云うてはならん。」
という約束を交わして、依然として溜めては刀を造り、溜めては刀を造って居りました。売れないんです。而も小林宗光は、変わっている人で、展覧会に一切出さない。名を求めず、利を求めず、貧乏に平然としていたという、これは名人でした。その精神状態から云ってもね。堂々たる人物でした。流石に桜井正次の一番弟子だけあって、見事なものでした。

刀鍛冶の伝統というものは、今日迄少なくとも一干年は伝わっております。蒙古の家柄では八百五十年伝わっております。これは九州福岡市に守次(もりつぐ)という刀匠がおります。備前の国から八百五十年前に、守次という刀鍛冶が、九州へ移ったのです。刀匠の名前を苗字にしております。
此の他東の方では五郎正宗の家は六百五十年位伝わっておりますが、西では前に申しました盛高靖博の家が金剛兵衛盛高の末孫としてある様に、弟子筋と云いますか、子孫と云いますか、頑固に我が道を守るものです。
平素は錠とか鎌とか、小刀等を造っているんです。お金が出来ると、貧乏などは意に介せずと云うんですかな、刀を造るんです。一般の鍛冶屋の中から、刀鍛冶を志願して入って来るのもあります。例えば鯨を切る庖丁を造る人があります。鯨を切るんですから大きいのです。鯨庖丁ではどんな名作を造っても、尽く地上から遂には消えると云うんです。而るに刀を造って、神社に奉納して置けば、百年も二百年も我名は残るのです。金銭を残す事と名を残す事を比べますと、お金を造って見ると、名を残す方を取るんです。それで刀鍛冶の方に転向して、貧乏になるんです。そう云う生活をしている人が、今でも、五、六十人はおります。此の処に日本と云う国の見えざる底深い伝統と申しますかバックボーンと申しますかね、強いものがあるんです。表面だけを見ると、戦後日本の精神が無くなった様に見えますけれども、其の根底には一千年の伝統を飽くまでも守り抜くと云う、或種の日本人がいるんです。それがマー、刀鍛冶だと、こう云う事になります、私なども大学を出た刀鍛冶ですが、未だ展覧会に出した事もなし、そんな大衆向の日本刀の製法を書いた書物を出版した事もなしに、唯一人、コツコツと我道を、我友と共に歩くと云う、非常に楽しい生活をやっております。

刀鍛冶の秘伝(一)

秘伝を何とかして知りたいと思って、刀鍛冶を訪ねると、秘伝を習うどころか、その前に面会謝絶を食わせます。会って呉れないんです。私が大阪の月山貞勝の所へ行った時なんぞは見事な門前払いでした。奥の方で槌の音が聞こえるんですが、姿も見せない。已むを得ず三年経って再び訪門しましたが、又もや門前払い。ガックリ来まして、東京へ帰って友人の本間順治さんにぐちを言ったら、それじゃ巧い方法を考えてやると云って、伊勢神宮を造った時の造営局の長官に頼んで、私の為に紹介状を書いて呉れました。

其の時月山貞勝は伊勢神宮に奉納する刀を仰せつかっていました。御注文主の紹介状ですから、やっと会って呉れました。
「先生、私は貴方に会うのに、六年かかりました。」
と云ったら、
「いや済まん、私の顔を見たいなんていう物好きが沢山来るんで、それで断わるのです。」
こう云って、まあ笑っておられました。
秘伝と云うものは八釜しいもので、第一弟子にして呉れません。入門を頼むなどと云っても、ことわられます。それで運よく入門を許されたとしても、唯、あの入学試験を受けて通るなんて云うものじゃないんです。
入門に際しましては、神文(しんもん)という物が要ります。
「自分は何々先生に従って、これこれしかじかの鍛法を学ぶ、一生懸命に修行します。一生偽物は造りません。
そうして又師匠から教えられた秘伝は、親子たりとも雖も他言致すまじく侯。万一他言致したる際は、伊勢神宮を始め、鎮守八幡宮の神罰立ちどころに到って、子孫永く断滅仕るべく侯もの也。依って神文、件(くだん)の如し。」
なんて読むとブルブルとします。秘伝を喋ったら子孫永く断滅するというんですもの。是は福岡県柳川市の武藤久広(ひさひろ)の家にありました。こうした神文とか誓詞(せいし)と云う物は、沢山あります。

鎌倉市の山村綱広の家に、熊本の武士の刀鍛冶の入門した時に書いたものがあります。血判をして御座いました。
ですから刀鍛冶の秘伝を学ぶと云う事は、今の原子爆弾の製法を盗むか、ミサィルの秘密を盗むが如きものです。本当に隠すものです。では何故隠すのかと云う事を調べて見ました。そうしたら、水心子正秀(すいしんしまさひで)という刀鍛冶の『剣工秘伝誌』に、秘伝を隠す理由を、こう説明しております。
「いやしく惜しみて、伝へざるに非ず。無闇に伝へても弟子の技量がそこまで到達していない時は、却って修行の妨となるもの也。旦つ又師匠から、固く秘伝として伝へられたるものを、軽々しく人に伝うるは、師弟の道に反する者也。」
鮮かに書いてあります。
併しその他に各藩が、武器の秘密を守ったという事は云えるんです。その一つの物語としまして、或刀鍛冶か薩摩の刀鍛冶の弟子になりました。弟子になるには、前の師匠の諒解を得て、前の師匠から、新しい師匠に、自分の門人何の某を頼むとの依頼状か来なければ、絶対に門人にして呉れません。今でもそうです。だから前の師匠にことわらずに、新しい師匠を取る事が出来ない。それで薩摩の刀鍛冶に入門した人は、師匠からも依頼が行きました。

薩摩の国は、言葉を判らなくして置いて、他国人のスパイの入るのを防ぐと共に、刀の製法は薩摩刀とか薩州流というのがあって独特なんですよ。代表は元平(もとひら)なんぞがいるんですが、その製法を学んで帰って来たんです。
師匠は喜んでね。
「儂が紹介したんだから、製法を話してくれ。」と云ったら、
「イヤ、薩摩のお師匠さんが、絶対に他の人に聞かせるなと云う約束をさせられたんです。約束をしたからには、昔の師匠であっても、新しい師匠との約束は守らなければなりません。」
秘伝は聞かせないんです。そう云う程頑固です。只今でも最高の秘伝になりますと、十人弟子がいたとすると、その中から志のある者一人か二人にしか伝えません。越後の西蒲原郡新飯田(にいだ)村に、大家栄家(おうやまさいえ)という人がおりました。焼刃土の調合法は、十八人弟子のいるうちで、唯一人此の人に伝えただけなんです。
「あとの弟子は、土が必要になったら、師匠の所へ貰いに来い、師匠の生きているうちは、只でやる。師匠が死んだら、此の大家栄家が知っているから、そこへ貰いに行け。」
調合法は他の十七人には教えないのです。調合した物だけ、只で呉れるんです。そうすると、一人だけ抜擢された弟子は、師匠の為に一生懸命に働きますし、師匠が年をとった時は、晩年の生活費は全部、その弟子が見るのです。一種の保険ですね。そう云う責任があるんです。現在でも此の伝統は守られております。
これは私が水戸市の勝村正勝師匠から教わったんですが、地ニエと云うものが刀にあるんです。
「地ニエを出すには、どうしますか。」
と聞いたんです。
「竹を虫が食うと、細かい紛が出るだろう。あの粉を焼刃土に混ぜて、焼を入れると、地ニエがつく。」
と教えられました。これは水戸の勝村家唯一軒にしか、秘伝はなかったです。之に対して、九段の靖国神杜の鍛刀所では、
「オキシフールを焼刃土に入れて焼入れすると、オキシフールの為に、土に細かい穴があいて、地ニエが出来ますよ。」と倉田海軍大佐が云っていましたけれども、私はまだ両方を比較して見ないんです。オキシフールが良いか、竹を食った虫の粉がいいか、そう云うものも御座います。
焼入れする時加熱した鋼の色ですね、今では温度計で測定しますが、昔はそんなものがありませんので、相州伝の鋼の色を教えるのに「剣工秘伝誌」では、
「夏の夜、山の端より出ずる月の色に焼く可し」
これは千古不変の標準色です。山の端から出る月の色は、あれが相州伝の刀を焼入する時の、刀の色なんです。
温度などは昔の人は知りませんからね。ですから焼を入れる部屋は、まっくらです。大低夜半に焼を入れるものです。名月の晩は焼入れはダメなんです。況んや昼間なんて云うものは、太陽の光線で、刀の色調が乱れますから、焼入れをやりません。
其の他諸々の秘伝が御座いますが、尽く是れ事実であり、現代の科学に照らし合わせても、成る程巧い事をやったものだと感服して了うものばかりなんです。
それを一人々々の刀鍛冶から、全部学ぼうとするんですから、矢張り弟子入りをして、五年経って一ツ、六年経って二ツ、七年経って三ツと云う具合に、長期抗戦と申しますか、本当に長い年月をかけて、気長に弟子の任務を果たして行くと、何かの時に、ポツリポツリと教えて呉れます。面白いものですね。矢張り教えたいんです。
残したいのです。但し志なき者に教えると偽物を造り、世間が非常に迷惑するから、よくよく人物を見極めないうちは、教えないのです。

刀鍛冶の秘伝(二)

新選組の近藤勇の持っていた、長曽根の虎徹は、あれは真赤な贋物なんです。近藤勇が虎徹が欲しい、虎徹が欲しいと云うんですが、そう無いでしよう。有名ですから。そこで当時の刀屋が、時の名工山浦清麿に頼んで、今では清麿は虎徹位の値段はするんですが、虎徹の贋物を造らせて、之を納めたんです。だから近藤勇が、愛刀の鞘を撫でて、
「今宵の虎徹は血に餓(う)えている。」
なんてせりふを云っても、それは偽虎徹で、本当の虎徹は血には餓えていないのです。
ああ云う事もあるので偽物を造るのです、ですから米国のボストン博物館や、英国のブリテッシミュージアムでも、そこにある所謂天下の名刀は全部贋物です。本当の名刀は外国へ売られて居りません。刀だけは。浮世絵とか鍔とか目貫などは、それこそ珍品が売れて居るけれども、名刀だけは、例えばボストンにある正宗などは嘘ですな。ロンドンにある三条小鍛冶宗近などは贋物ですね。コロコロと毛唐人が欺されて買っているんです。
国内でも、そう云う具合に、愛刀家の馳け出しの人は、皆欺されて居る。そういう欺し易い刀ですから、人を欺す様な悪徳の性格を持っている弟子に、秘伝を教えたら、朝から晩迄、秘伝で偽物を造るでしよう。買った人は大変です。売ろうとなったら買値の十分の一でしょう。そういった世間の迷惑を考えるから、刀鍛冶は秘伝というものを隠すんですよ。

「卑しく惜しみて、伝えざるに非ず、世間の迷惑を考ふる故なり」
で御座います。ですから私などの様に特にこう云う物を深く調べて来た者は、今の様に偽物を造る方法を伝えるというので、特別に秘伝について厳重にしています。併し消滅してはいけないので、北海道の誰、水戸の誰、熊本の誰、越後の誰、それ以外は聞かせない。まあ倅には伝えますけれども、合わせて五人位しか伝えて置きません。ですから自分達の造る所は、テレビで写すとか、映画でやるなんて云う事は、コレ真向からおことわりを致します。秘伝をやりますから、そんなの公開されたら、インチキ刀鍛冶が、直ぐさま利用するでしょう。偽物は簡単に出来ます。本ものを造るには実際吾々がやった様に、四十年の苦心は要るのですが。
それに流派があるでしょう。色々のがあります。例えば佐賀へ行けば、肥前忠吉(ただよし)の秘伝があります。熊本へ行けば、前号で申し上げた様に、延寿太郎宣繁の秘伝があります。薩摩へ行けば薩州元平の秘伝。江戸へ帰って来れば水心子正秀の秘伝、仙台へ行けば奥州国包(くにかね)の秘伝という訳で、一人々々の秘伝を学ぶ事だけでも大変なものです。

それが一干年来の全部の秘伝、八百年前の古備前の秘伝、七百年前の京都粟田口の秘伝、六百五十年前の鎌倉正宗の秘伝となれば、是は現代科学の又奥の方にありますから、それを知るには長い長い年月がかかるでしょう。
その代わり、そんな年数がかかると云えば、お聞きになる皆様は、大変だなーとお考えになりますが、やっている方は面白くて、如何なる道楽よりも楽しいものです。ですから私はまだ後楽園の野球場も、明治神宮の学生野球も、東京に居た学生時代から、今日迄見に行った事がありません。吾々の杜会と云うものは趣味が違うんです。
ですから永い年数かかっても、その間は苦心なんぞと云うものではありません。楽しくて楽しくて、一つ一つの秘伝を聞くたびに、大収穫を得た様な喜びに満ちて、生活をして来て居ったんです。その代わり物質面は世間様から見れば、可哀相な程清貧なものです。そう云う事は、意に介せずと云うのが、刀鍛冶の伝統ですから、九州小倉の紀政次(まさつぐ)という八十六歳の刀鍛冶が、私に秘伝を教える前に、先ず教えましたのは、「刀鍛冶は算盤(そろばん)を持ってはならん。」
それでは黙っていても貧乏になります。 学者の中でも、私の師匠の俵国一工学博士は、私の母が御礼に参上したら、
「お母さん岩崎君を貧乏にして置いて下さい。」
母はビックリして、
「何故ですか。」
と聞いたら、
「ああいう難かしい研究は、貧乏にして置くと、これでもか、これでもかと云ってね、努力するものです。これが金持になると、楽の方へ行って研究をやめて了います。」
それで私は母に云われて、成る程老先生の云われたことは尤もなりと思って、此の御言葉だけは固く守って、今尚金持になりません。金持になれば人間はイージーゴーイングで、容易の方へ行きますヨ。遊びの方へ。遊びの方なら、一生涯掛っても遊び切れない程の、設備はありましょう。それを見破って、俵先生は、日本刀研究の後継ぎはこの男だと思って、研究の秘伝を母に伝えたんですナ。
「貧乏にして置け。」
大変な秘伝です。此の秘伝を、正直に受け取る者は少ないですヨ。金持を希望する人は、駄目なものです。

名刀とは何ぞや

皆様が月の出て居る夜の美しさと、即ち月光の奇麗さについては、どなたでも判る様に、又、花の華麗なものと、余り美しくない花は、子供でも直ぐ区別をつけて、美しい花を取りますね、あれと同じ様に、人間には生まれつき美と云うものを鑑別する、本能的の審美眼というものがあります。良い刀と悪い刀を並べますと、先ず一番判る事は、色が違うんです。
悪い刀はきたない色でございます。良い刀はまるで真珠か翡翠を見る様な、美事な色で落ち着いていて、何と申しますかな、表現して深い水の溜った淵を、上から見る様な色なんぞと形容します。ああ云う色をして居ります。
名刀でない方の色は、乾いたカサカサの色をして居ります。
五万円の刀と、五百万円の刀を二本並べて、比べさせられると、如何なる素人のお方でも、ピタリと当て、五百万円の形を美しいと云います。それが名刀の一つの見分け方なんです。それが又、造るのにトテツもなく困難なんです。五百万円の刀と同じ艶を出す所の刀を造れと云われると、私は四十二年、未だ苦心が終わっておりません。時々きたない刀が出来たり、十年に一遍位、良いのが出来て、何故美しい鋼が出来たんだろう、なんて首を捻って居ります。

其の次に名刀と鈍刀の区別の判るのは形なんです。鈍刀と云うものは形が悪くて、木刀みたいなものです。
名刀は蘭の葉の垂れた様の、自然の美しい曲線を持って居ります。特に美しい曲線でよだれを流す様な刀は、八百年程前の平安時代の名刀です。これが最も美しい形です。例えば、後鳥羽天皇が、鎌倉鶴が岡八幡宮に奉納された太刀なんて云うものは、一回の合戦にも出ませんから、滅ってないでしょう。それが実に美しい曲線なんです。その曲線を何としても真似出来ない。真似がですよ。判らん。どうしたら同じ曲線になるか、誠に不思議ですが、八百年前の平安朝時代の刀が、最高でございます。
それから百年位下って来まして、七百年程前の京都の粟田口の刀が、造るのに面倒です。次に困難なのが同じ時代の、備前長船(おさふね)村の刀、長い船と書いておさふねと読む。多くの人は、長船という刀鍛冶が居ると思っていますが、あれは村の名前なんでして、そこに忠光(ただみつ)、長光等の名工が居りました。是等長光一派の人々が、鎌倉時代の備前の名人なんです。此の処で造られた刀に大板目の肌が、木材の肌の様に出ています。それが模造出来ないのです。

少し年数が下って、六百五十年程前、鎌倉時代末期から、吉野朝時代にかけて、鎌倉の雪の下に、五郎入道正宗が居ります。此の人のやった焼入れの秘伝が判って居りません。
年数をグット下げて、慶長の初期三百五十年位前に、堀川国広の名刀がありますが、この鍛法が特殊の物で造るのが面倒です。徳川中期には長曽根虎徹、徳川末期には水心子正秀、幕末に山浦清麿、それから更に年数が下れば、現代昭和年間の名刀です。
昭和年間の名刀と云って威張っても、江戸時代へ持ってゆけば三流位です。平安朝時代へ持って行ったら十流か十一流位で、刀鍛冶の数に入れられないでしょうね。
どうしてそんな差があるかと、皆不思議がるんです。科学の進歩した今日、刀だけは何故古いのがよいのか、と質問があります。私答はいつも決まっているのです。
「刀に関する科学だけは何も進歩して居ません。進歩しているのは電子計算機だの、ナイロンだの、ミサイルだの、原子爆弾であって、日本刀に関する科学は、進歩どころか時代が下るに従って退歩して、今日が一番衰えて居るんです。だから今の人はもう少し頑張れば、もっと古い所までは到達出来るでしょう。」
即ち科学者が沢山此の方面の研究をすれば、よいのでしょうが、之を関係している私などは、余り優秀でなかったものですから、どうしても鎌倉時代、平安時代の刀の製法が、未だに解決しないんです。今後吾々のあとから出て来る理工学部を卒業した人などが、刀の道へ来たら簡単に解決するかも知れません。

例えば二代目村正の刀を分析して見ますと、マンガンが痕跡、硫黄が零という鋼を、使って居るんです。そう云う鋼を、今の製鋼業者全部の人を集めても、造れないんです。造り得ないのですヨ。此の様な純度の高い鋼は、今日の技術では、製造不可能なんです。以て如何に古代の原料が優秀であったか、判るでしょう。従って二代目村正は、六百年位前ですが、その原料たる鋼の造り方が判らない。況んや七百年前の京都粟田口の吉光(よしみつ)等の鋼の造り方も判りません。八百年前の平安朝時代の刀の原料も判って居りません。 判らんからヤミクモに造って居ります。その刀と、古いものを比べると、色が違うと申し上げたのは、鋼の差から来るものなのです。混り気の少ないものの色が美しいのです。純金の色と、混り気のある十八金の色が違う事は、皆様御存知でしょうが、あれと同じ様な事が、刀にも云えるのです。
私共の研究の中心は、一体八百年前はどう云う方法で、鋼を造ったかと云う点にあります。刀を造るもっと前なんです。鋼を造る所でもう絶壁にぶつかってしまったんです。私共の唸って居るのが現状なんです。

名刀の切味に挑戦する

名刀はすべて切味がいいから名刀なんです。例えば源氏の髭切膝丸(ひげきりひざまる)は、罪人の首を切った時、ヒゲをも切り、更に膝まで切ったというんです。一切でね。或は、小笠原馬之丞(うまのじょう)の持っておった刀は、「承久記」によると、
「馬の平首、フッと切って落し」
と書いてあります。馬の首ですよ、あれを一刀でフッと切って落としたと形容してあります。又、北条高時が新田義貞に攻められた時、家老の長崎勘計由左衛門の持っていた、面影(おもかげ)の太刀なんて云うのは、来太郎国行(らいたろうくにゆき)が、八幡宮に百日間参篭して鍛えたと云うのです。新田義貞の軍勢が稲村が崎から乱入して来ると、其の中へ飛び込んで行って、冑に当れば、冑を切り、鎧に当れば鎧を切って、とうとう一方の血路を開いて、長崎勘計由左衛門は落ち延びたんです。併し面影の太刀はそれ以後、遂に再び世の中へ戻って来ませんでした。凡てどの刀も、全部素晴しい切味を示したというのが、家宝になって残るんです。そう云う家宝は二度と戦場へは出しませんから、刀の幅は広く厚さも厚く、出来たての刀に近い姿をしています。
そうでないものは二回出れば、二回分だけ刀は減るでしょう。刃が欠けるから研ぐと減るのです。三回出れば使えない程、細くなります。細くなった刀は、刀の世界では「痩せた刀」と云うんです。丈夫な太い刀を「健全な刀」と云います。人間の健康の様に見立てます。だから田舎にある名刀で、有名な刀鍛冶の造ったものは、大体痩せた刀です。それが昔の大名の家にあるものとなると、健全な物が残っているんです。

其の他原料の鋼だけでないんです。そこに表われた刃の模様は、何んとしても真似出来ないんです。真似をして造ろうと努力するけれども、古代の名刀の方が、賑やかで美しいのです。現在に近づく程、淋しくて なくなります。かなわんですね。次に反りが違うんです。使って見れば切味が違う。処置なしですな。何から何まで全部違う。
非道いのは錆の色まで違います。名刀と云われるものの、真黒に近い色錆が出ます。こいつが、研いで一皮むくと、下の方からピカッとした刀身が出て来ます。少し時代が下って来ると、少し赤味を帯び、研いだあとには、おできの様なかさぶたと云った形に巧ちこんでいます。現代の刀は研いだあとが孔になって、井戸みたいに、深く掘られて、錆の色が赤くなります。さあ、錆が何故赤くなり、何故黒くなるか。或は穴の様に掘り込まれた錆になり、或は深く入らんのは何故かとなると、もう現代科学は又もや御手あげするんです。そんなもの大学の講義にも、鋼の本にも出て来ないのです。今の学校で教わっている鋼と、昔の刀鍛冶の使った鋼は全然違うんです。製法も根本から違うんでしょう。
焼の入れ方も違うんでしょう。ですから備前の刀に「うつり」と云う模様があるんですが、それが出ないんです。現代の刀鍛冶が、時折出たと云うんですが、完全に出ません。 それから昔の刀に重花丁字(じゅうかちょうじ)なんて云うのがあります。丁字の花の重なり合っている様な刃の模様ですが、これが殆ど出ません。粟田口伝(あわだぐちでん)の、細直刃(ほそすぐは)、刃の模様が細い直線の様に出るのですが、却々出ません。出ないのを上げたら、それこそ名刀の特徴は全部出ないんですけれど、それ程困難な、技術の差があるんです。

秘伝消滅す

今残っている秘伝は、残念乍ら秘伝書と云っても、慶長年間約三百五十年前のものが、一番古いのです。江戸時代以前の秘伝書は、一冊も残っておりません。私は四十二年かかって、目本中を深し歩いて、秘伝書を五十三種類見つけたんです。皆、江戸時代以後の物で、それ以前の物はありません。
従って正宗の秘伝は、口に伝わっている口伝も無ければ、書いたものもありません。断絶して影も形もありません。造られた名刀だけが標本として残っております。其の美しい標本-大体は国宝-だけを見せられて、累代の刀鍛冶は一生涯、苦闘するんです。そして却々出来ない。古刀の製法絶えたりです。

断絶したやつを、復活しようというのが、現代の刀鍛冶全員の夢なんです。而も誰も復活し得ない。江戸時代三百年かかって、殿様から禄を貰って、生活の保証を受けていた刀鍛冶は、一万人位いましたが、其の中に一人もゴールヘ入りません。それで秘伝書を読んで来ると、いや正宗の製法だ長光の製法だと云う事が、書いてはあるんです。おかしいなと思って刀を見ると、相州伝で之を造ったとか、備前伝でやったと茎(なかご)に書いてあるんです。
実物を比べ合わせると違うんです。何故こんな違う事を書いたかと思いあぐねていたのですが、私も今年で満六十二歳と二ケ月ですが、判りました。年をとると目があがるんですね、そうすると自作の刀と名刀が、同じに見えるんです。老眼の為に。それで自分の造った刀が、正宗の刀と同じに見え、正宗の名刀が自己の刀と同じになって見えるでしょう。そんなら刀鍛冶は、「われ相州伝を発見したり」と、書きますよ。御弟子が見れば違うけれども、老師匠がいい気持ちになっておるものを弟子が、「違いますよ師匠」、なんて云う人はいますまい。それで刀鍛冶は、晩年俺は備前伝を見つけたとか、相州伝を見つけたとか云って、満足し切ってニッコリ笑って死んで行くんです。私も今に間もなくもう少し老眼が、ひどくなると、同じ事を云うて、死んで行くんではないでしょうか。
神様と云う者は、巧く人間を造っていますよ。死ぬ迄苦悶させません。最期には安らかに笑って、あの世へ旅立たせて下さいます。

玉鋼の剃刀

江戸時代の原料鋼の製法は、今日も残っているのです。其の原料を普通玉鋼(たまはがね)と云っているんです。
それを分析しますと、前述の二代目村正と比較して、話にはならんけれども、独逸の原料鋼より遥かに優秀なんです。だからね、古名刀と云うのは原料は、ウルトラCです。現代の日本刀の原料は、刃物鋼としては世界一であり、特級品です。古名刀の鋼はその又上なんです。
右の玉鋼を持って来て、江戸時代の日本刀の製法で、剃刀を造りますと、独逸の剃刀など問題になりません。
そうでしょう、長曽弥の虎徹や、山浦清麿と同じ鋼で、同じ方法で造った剃刀が、ゾーリンゲン市の製品以上である事は、これは皆様、御判りになると思います。そうやって剃刀を造り、各方面に販売し、使った理容師さんに、独逸品と比べてどうですかと聞き、五年十年とかかって、沢山統計を取れば、五百人千人の人から答えが来るでしょう。その答えのうち八割位の人から、独逸品以上と云われたら、先ずは善いと思って宜敷いのではないでしょうか。

斯くしてとうとう出来上がりまして、一回研いで、最高は千七百七名剃ったという理容師さんが、富山市におります。剃った人の数は数えなかったが、三年三ケ月間、一度も砥石にかけなかったという人が、福岡市におられます。素人で御自分の顔を剃って長切れさせている人には、談話の大家徳川夢声さんがおります。あの方に、
「切れなくなったでしょうから、送って下さい、研いで返します。」
と云ってやったら、
「まだ切れるからよい。」
と云われ、大体三年に一回ずつ送ってよこされます。おさめたのが五年前ですから、来年あたり送って来るでしょう。それ程素人なら三年位研がなくてよいです。
併し逆に、悪い事を云う日本人がいまして、
「そんなに切れる物を使ったら、売れないじゃないか。少し切れないものを出したらどうだ。」
悪い考え方です。親子三代、一挺の剃刀で済むなら、その弟子も、近所の同業者が皆之を買うでしょう。日本中がそれで一杯になったら、徐(おもむろ)に外国へ売りに行けばよいでしょう。それをね沢山売ろうと思って、直ぐ切れなくなるものを造ったら、いつになっても独逸のゾーリンゲン市の剃刀に敗けます。
「そんな長切れするものを使ったら、売れなくなるんじゃないか。」
と日本人が平気で云う程、日本人のメーカー精神が堕落しているんですナ。その考えで、外国人の物と競争しょうなんて云うのは、とんでもない話です。矢張り一挺使ったら、三代に亘って剃刀は買わなくとも宜敷いと云う様なものを、造るべきだと思います。吾々はそれを理想にしています。
何しろ金儲けが第一主義じゃないんです。善い物を造ると云う事が、吾々の生活の根本であり、品物を造って楽しむのが、心の根底にあります。名刀の伝統を生かし、名刀の精神を生かし、鋼も、焼入れも全部を今の剃刀に生かして行こう。これも何とかして大量生産をして工業化の線に載せようじゃないかと努力しています。
この解決は今迄の苦心に比べて、割合に楽だと思うのです。解決して国内の需要を満たすのが先ですから、満たされたら剃刀をアメリカに売り込み、親の仇である独逸製品と一騎討ちをやって見たいのです。一本とってやりたいのです。父親が生きていたら、どんなに喜んで呉れるだろうと思うのですが、木静ならんと欲すれども風やまずで、親に孝行しようと思う頃は、親はいないという訳で、もっと早く完成すればよかったと後悔しております。

   昭和四十年三月九日より十二日まで十五分ずつNHK新潟放送局で放送したものを、茶道の雑誌「石州」 昭和四十年八月号より
   十一月号に発表したものです。
 
      なお、さりげなく書かれている「友人の本間順治さんにぐちを言ったら」というのは故本間薫山のことで、日本美術刀剣保存協会
   の戦後最高の鑑定家と評される方ですし、「私の師匠の俵国一工学博士は、」という方も冶金工学の日本の代表的な研究者とし
   てありまにも有名な方です。
 
   岩崎さんがそういう方々からも充分に信頼されていた事が行間に感じられると思っています。
 
   なお、戦後、住いを三条に移されてから、刀剣界では貴重な研究者をもう一度中央に引き戻そうとの動きがあったそうでしたが、
   岩崎さんが剃刀を作ることを最終目的にしておられたために、果たせなかったと書かれた刀剣書の記事を読んだ事があります。

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