三条金物ニュースより

三条の職人 第二回 二代目永弘 永桶 次助


永弘二代目永桶次助氏六十八才(?)に、刃物に対する執念と情熱を聞いてみた。初代永弘、永桶米太郎の三男に生れ、長男は早逝次男は商売ちがいの為自分が父の仕事を継がねぱならなかった。

三条高小卒業後父の仕事を手伝い昼は鉋、夜はノミの製造に専念していたが、数ケ月すると、父は彼に小さな、自分丈の仕事場を作ってくれた。その時、彼は十六才にして独立してノミの製造をせよと父に言い渡され、不本意ながら彼はその道に身を置かなけれぱならなかったのである。
父はどうして彼にノミの製造をする様に言ったのか、それはノミ特有の様々な形状を含せ、打刃物の基礎である火造り、焼入れ仕上げ等を完金に習得すれぱ、全て刃物の製造につなわることだからで施る。しかし、父はその意志とは裏腹に、彼には口ではとやかく言ってくれるが、決して手を添えて教えてはくれなかったのである。
仕方なく彼は優秀な見本を参考に材料、形状・火造り、仕上げ・切味を全ゆる角度からノミの研究を行った。
そして十年、父から「良くやった」と言われて初めて鉋の製造に移って行ったのである。その後半年ノミで鍛えた腕を十分活かし製造した鉋を本職大工に試験をしてもらいながら切味の研究をした、そして本格的な鉋の製造を始めるに当ったのである。

その翌年父米太郎逝去、この父が歩んだ道は彼が歩んで来た道と、一寸ちがわぬそのままの道であったのである。彼の父も少年の頃河内庄次ノミ製造工場に弟子入りし、初代永弘の基礎を築いた人である。

彼の父にはもう一つの大きな特殊披能があったのである。それは刃物の基礎となる鋼の吟味が完壁でそれが刃物に適不適を識別する能力なのであった。ある時、ヤスキ製鋼所の社員がもって来た材料を火造りをした後、カーボン含有量をズバリ当て、その社員をびっくりさせた話もある位である。この様に二代目永弘はすぱらしい才能と腕をもった父の冷たくも愛情ある手で鍛えられ、刃物に対する執念と情熱をもって永弘の伝統と誇りを守り、そして三代目永弘へと継承して行くのである。三条の名工末永く元気であって欲しい、と念じて止まない。(金物ニュース昭和52年2月15日号より)

この記事はKさんが書かれましたが、この時も私が同行していました。
お聞きしていて、次のことが特に記憶に残っています。

一丁の、柄が仕込んでない突鑿を示されて、「これは私が(小さな仕事場で)最初に造った鑿なんですが、とても難しかったところがあります。これを作る時に一番苦労したところがどこだと思いますか?」と問われました。

手鑢で仕上げた整った形の入念作でしたが、解らないで答えられないでいたら、首(細くなった所)から穂(幅が広くなる所)の肩の部分を左右対称にすることが、手鑢で仕事をしていると逆手になることから、とても難しいものだと言われました。(14/1/13記)

次の二枚は、二代永弘の鉋です。
道具の場合は、昔の名工の品が残っているのは、ほとんど使われたものばかりです。
この二枚は少し傷らしいものがありますので、恐らく、クレームで返ってきたものではないかと想像しています。
それでも、現在、残っているのは大変貴重なものと思っています。(14/1/25記)

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