三条新聞平成21年1月10日号から引用しました。

天地人の火阪雅志さん『天地人』の

『直江兼続』の人物像や思想撮影裏話交えながら

経済と義の両立こそ必要・兼続の思想の師は謙信・天の時、地の利、人の和・私利私欲なく信頼を大切に


 兼続の思想の師は上杉謙信だとする火坂さんは、「謙信は藩内の若い人材を自ら教育する謙f學校ともいうべき場を設けていた。謙信はそこで、頭のいい兼続を見込み、どんどんものごとを教え込んだと思う。そこで兼続は謙信から『義』の思想を学んだ」とした。

 戦国時代は百年に及ぶ内乱の時代。「そこでは『梟雄』が頭角を現したが、それは謀略、裏切り、暗殺の世界。謙信はそうした生き方を『獣の生き方』だとし、人間らしい品格ある生き方をめざし、『天の時、地の利、人の和』をもつ武将をめざし、そこで『義』の生き方を掲げ、私利私欲ではなく、信頼を大切にし、常に公(おおやけ)を意識した生き万を貫いた。そんな生き方の謙信を周囲の武将 はきっと、いつかつぶれると思ったに違いない。しかしつぷれるどころか、謙信の元には人が集まった。

武将たちも個頼関係が築ける大将を欲していたということ。そして戦国一、二を争う家臣団を作り上げ、名将と呼ばれるまでになった。その精神を最もよく受け継いだのが兼続だった」とした。

開墾、麻織物、金・銀山
日本海の海運利用して戦国随一の財力
謙悟か作り上け兼続が育て上げた

一方、謙信は一般に神がかり的な強さの武将というイメージがあるが、実際には開墾や麻織物(からむし織)の奨励、金・銀山の開発を進め、日本海の海運を利用して戦国随一の財力も身につけたことでも知られ、「謙信は義の政治をしながら、戦国随一の経済大国まで作り上けた」とした。

兼続の人物像では、身長は一八〇センチほどで非常にハンサム。雄弁でもあり、学問では戦掴武将で「五大学」の一人に数えられるほどの智将だったとし、「その戦国の五大学のなかに謙信と兼続の二人が入っている。

 つまり、謙信が作り上げ兼続が育てた越後の地は戦国の世にあって文教にも優れた場所だったことが分かる」とした。
 県内の産業に与えた兼続の影響は大きく、「与板は直江家の地元。兼続は出雲から船で鉄を運び、金属産業を奨励した。越後の金物産業の発祥は兼続によるものと言っても過言ではない」(*1)と言う。

 兼続の主君となる景勝、兼続とは対照的な人物で、背は低く、ずんぐりとした体型で、口数は少なく、強面で、唯一の趣味は刀剣。常に傍らに刀剣を置き、それに手を置いていたという。(*1)家臣からは恐れられ、家臣の前で笑ったのは生涯ににー回だけという記録があるほどだが、「二人は対照的だったからこそ互いにウマが合い、二人で力を合わせて荒波を乗り越えることができた」と見る。

 謙信の後継者争いだった「御館の乱」で景勝側が勝利するが、かなり疲弊してしまう。この間、武田信玄、上杉謙信の相次ぐ病死で勢いづいた織田信長が急速に勢力を拡大し、武田勝頼を長篠の合戦で破ると、信長軍はそのまま越後を包囲した。 しかし、上杉勢は富山の魚津城が粘りに粘りヽ織田軍最強の柴田勝家を相手に八十日間も陥落しなかった。さらに、三国越えで越後に入った軍は、景勝・兼統直属の上田衆がわずか八百人の兵力で五千人の敵を下す働きを見せるなど、驚異の強さを発揮。

 この驚異の粘りが奇跡を呼び寄せ、魚津城が陥落した翌日、織田軍に「明智光秀の謀反により信長死去」の知らせが入り、全軍が撤退。結果的に上杉軍は、織田軍を追い払った形になった。

上杉も家康に狙われて そこで兼続が『直江状』
  この時代に生きた兼続ならぱ、なぜ信長は天下取りを目前にして失敗したのかを考えたはず。信長は信玄や謙信のように病死ではなく、家臣に肘たれた。信長は最初、身分にとらわれない人材登用や楽市楽座などの改革で勢力を伸ばしたが、後年は自分を神と敬えとか、比叡山だけでなく、門前町すべてを焼き尽くすなど、一般市民をも巻き込んで殺りくを繰り返していたため、光秀が暴君となった信長の悪逆を止めるために謀反を起こしたと私は考える。兼続もそこを考えたはず」とした。

 景勝は秀吉の死後、合議制による五大老の一人となるが、同じくその一人だった徳川家康がすぐに天下取りに動き出し、合議制を壊してしまった。家康は諸侯に何かと難癖をつけては脅し、自分の配下に組み込もうとした。上杉ももちろん狙われ、景勝に家康にわびに来るよう催促してきたが、そこで兼続がとった行動が有名な「直江状」。

130万石が30万石に、米沢へ
謙信の教えに従い実質50万石の雄藩に

  「兼続は書面で家康に、景勝には謀反の意志などなく、無理を言っているのはあなたの方だと決然と言い放った。家康はそこで上杉征伐に乗り出すが、それはポーズだったようで、西で石田三成が挙兵するとすぐに西に軍を進め、関ケ原で西軍を破ってしまった。このため、上杉は天下を取った徳川政権に組み入れられるしかなく、米沢三十万石に移封されることになった」とした。

 越後から会津に移り、百三十万石を誇った上杉だが、米沢は三十万石。従った家臣はすべて雇い入れたため、藩財政はひっ迫したが、兼続はそこでも、謙信の教えに従い、義を通しながら、新田開発や金・銀山開発、名産品作りの奨励などで経済を拡大し、実質五十万石とも言われる雄藩に押し上けることに成功。

  「私は『直江状』をたたきつけた強い兼続も好きですが、領民とともに土にまみれて働いた兼続も大好き。いまの政治家はピンチ になると政権を投げ出すが、ピンチをチャンスに変えるのが本当に優れたリーダーの姿。苦しいときにただ黙っているならだれでも できる。苦しくても、みんなのためにかじを取るのが真のりーダー。経済と義の両立こそ必要。『天地人の作品世界には、そうした現代日本人に欠けていのがぁると思う」と締めくくった。
(*1)新潟県の金属産業と言えば、当然三条も入る訳ですが、三条の金物は和釘から始まっていますので、兼続の時代とどういう関係があったかと感じ
ています。

(*2)昔の武将が刀を常に傍らに置いて、そこに手を置いていた、ということについて、愛刀家を自認する者にとっては、よく理解出来る心境です。なお、
上杉謙信は名刀を収集したことでも有名で、その中でも特に36腰を選んで秘蔵したことが知られています。
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