越後の職人

長島宗則について

18/01/29このページの下方に長島さんの師匠「清宗」について追記しました。

長島宗則は本名が平次郎で新潟市にお住まいでした。
刃物鍛冶で、さまさまな刃物の製作に熟練して製作される刃物は多種多様だったとのことです。
また、刀匠の認可も取っておられて刃物には宗則と切り、刀匠銘を昭麿と名乗っておられました。
近年は、刃物は主に鉋を作っておられたそうですが、さまざまな刃物に造詣が深く、何でも作れた方だそうです。

戦前に九州で下駄を機械で作っている工場があり、そこから長島さんに精密な図面で機械刃物の注文が来たそうですが、旧来の鋼を鍛接する方法で、キチッと図面に合う刃物を製造して納めておられたとのことです。

日立金属に合併する前の安来製作所に鋼の権威の工藤博士がおられた昭和9、10年前頃に製造された鋼を大切にしておられ、刃物には、これが一番だ、他の鋼はダメだと言っておられ、その鋼だけを使われていたそうです。
その鋼は白紙系だったらしいとのことと、まだ残っているのではないかとのことです。
この件で、ネットを調べた所、次のような記録が見付かりました。

大阪朝日新聞 1928.3.12 (昭和3)より、
「島根県能義郡安来製鋼所専務取締役工学博士工藤治人氏は昨春来砂鉄の電気熔解により鋼鉄原料の海綿鉄を製出すべく研究中であったが、最近試験の結果非常な好成績を得たので、いよいよ近く事業に着手すべく計画中である、これが完成の暁は本邦鋼鉄界に貢献するところ甚大で、世界的の発明であるといわれている、なお同博士は以前久原鉱業に勤めていた権威者である」
詳しくはこちらをご覧下さい。

日立金属の「鮎川義介と新和鋼」より
「大正7年(1918年)、第一次世界大戦が終結すると途端に不況に突入します。
当時は株式会社安来製鋼所になっていましたが、大正9年(1920年)に工場の一部を閉鎖し、これまで経営と技術を担ってきた伊部喜作も社長を辞任します。

大正14年(1925年)、工場再建を図るため、共立企業(株)の鮎川義介の助力を頼み、同社に経営権を委ねます。鮎川はのちに日産コンツェルンを組織し、第二次世界大戦中には満州重工業(株)を設立した偉大な起業家でしたが、安来を視察したとき、たたらの技術に感銘し、「和鋼の法灯を消してはならぬ」と救済を引き受けたそうです。彼は「量より質に重点を置け」という方針を示しましたが、これは現在の日立金属の基本方針でもあります。

鮎川(義介)社長のもと、安来製鋼所の実質指導者として赴任したのは工藤治人博士でした。彼は時勢に合った和鋼の利用を図るため、昭和6年(1931年)に新しく建設した木次工場(斐伊川中流域)で新和鋼、すなわち「清浄粒鉄」と「海綿鉄」の製造を始めます。清浄粒鉄は角炉で製造した木炭銑を電気炉で精錬し水流の中に投入して粒状の原料鉄とするもので、海綿鉄は木炭と砂鉄を十神炉(とかみろ)と称するロータリーキルンの中に入れて低温還元し、海綿状の鉄としたものです。」
詳しくはこちらをご覧下さい。
故岩崎航介さんは刀匠の許可をお持ちの方でしたが、お亡くなりになった時、ご子息の重義さんはまだ許可を取っておられませんでした。

重義さんからお聞きした話ですが、当時、長島さんが、「それでは私が教えて上げる。」とおっしゃって指導していただき、その後無事刀匠の許可を取られたとのことでした。
重義さんのお話では、兎に角、鍛冶仕事に熟練されていて、こんな方法もあるのかというような作り方をなさることがあったとのことです。
また、岩崎さんで修行された飯塚重房さんは今では包丁の名工としてあまりにも有名ですが、岩崎さんでは剃刀を作っておられて包丁製作のご経験がありませんでした。
この飯塚さんにも、長島さんが泊り込んで包丁の基本を教えられたとのことです。

また、東京の問屋さんにある銘で鉋を納めておられておられたとのことです。

この件で岩崎さんをお尋ねしてお聞きしてきました。(17/10)

長島さんは自分が修行した親方を大変尊敬しておられ、いつも名工だったと言われていたそうです。
その方は本名が江川民蔵で作銘は「清宗」と切る方で新潟市で鍛冶屋さんとして名声を博しましたが、問屋に卸すことはなく、近在の木工関係の刃物の製造だけで多忙だったとことです。
使われた鋼はイギリスで大砲の穴を削るバイトのスクラップで、それが新潟港に上がるとリャカーで運んだそうなのですが、重いので運ぶのに大変だったそうです。
次がその端材の写真です。

この写真は別々のスクラップのバイトを穴の所で切断したものですから、正しく繋がらないのですが、右方の穴の先にも穴があり、左の穴と二つの穴で回転する機械にセットされて砲身の穴を繰ったものだそうです。
左側の端がドリル状になっていて、下方に刃が付いています。

次の写真はやはり同じ材質で作られており、正確にはどこに使われたか解らないのですが、バイトで繰った後で機械で圧入して正しい円形を作るためのものではなかったかと想像されるものです。

これらのバイトは使用すれば減り、やがて規定より小さい穴しか彫れなくなることから、ある程度使うとスクラップとして放出されたものです。
なお、左側の大きな方は東京の千代鶴さんが使っておられた物と同じものを、それを納めておられた方から入手されたものとのことでした。

次の写真は長島平次郎さんの刃物銘「宗則」銘の鉋です。
銘の上には、写真が不鮮明で見難いのですが「新潟市」と刻印されています。

次は刃部を拡大した写真ですが、錆びているので解りにくいのですが、鋼が端の方で厚くなっています。
鑿は鋼を端で巻いていますが、鉋の鋼は平らなのが当たり前です。しかし、長島さんは必ずこのように端の方で厚くなるように作られて、鉋はこうするべきだと言っておられたそうです。赤錆のためよく見えないのが残念です。

また、全体の厚みは薄めです。どうも昔の鉋は今より全体に薄めだったようです。
次の写真は横からの見たものですが、下の長い方が宗則寸八で上が落合さんの延国寸六で、両方とも薄手です。

次は番外編です。
10年も前でしょうか、東京の刀剣商の月報で長島さんの「昭麿」の刀が売りに出たことがありました。
興味があったので電話で問い合わせたところ、既に、売れていました。
昭麿は新潟の刃物鍛冶として有名な人なんですが、言ったら、「そうだそうですね。欲しいという人が居て売りましたが、その人がそう言っておられました。」とのことでした。

今回、長島さんについて情報を教えて頂いた方に、岩崎さんのお弟子さんの水落さんがおられます。岩崎さんが体を壊しておられて3年も経つことから、最近、岩崎さんの工場に入って仕事をなさっておられる方です。
水落さんからお聞きした話では「長島さんは三条のどこどこに信秀の刀を持っている人がいる。」と言われていましたが、示されたあたりから判断すると、どうも貴方のことを言われたようですよ、とのことでした。

新潟県の現代刀匠から見ると郷土の名工である信秀を尊敬しておられて、興味を持っておられたたのかも知れませんが、もし、当時それがご縁でお付き合いが出来たとしたら、私の望むところでしたのに、とても残念に思っています。
現在お元気ですが、残念ながらご高齢のため寝たきりになっておられるとのことでした。

18/01/29次を追記しました。

新潟県の書道界で指導の頂点におられる方に江川蒼竹さんという先生がおられます。
現在90歳だとのことですが、なお、お元気で活躍なさっておられ、今年の正月(平成十八年)、新潟のデパートで最近の作品展として「江川蒼竹展」が開催されていました。

この江川さんのお父さんが江川民蔵と言う方で「清宗」銘の刃物鍛冶として評判を取られた方だそうです。
このページにご紹介した長島平次郎さんの親方で長島さんが指導を受けた方だったとのことです。
長島さんご自身が名工だったのですが、何時も、師匠を腕の良い人だったと語っておられたそうで、とても尊敬しておられたとのことです。
当日会場で販売されていた「書に生きて 江川蒼竹の世界」という自伝の本を購入しましたが、その中に、僅かですがお父さんについて語っておられますので次にご紹介します。

次の文章は「書に生きて 江川蒼竹の世界」(山本一郎編、新潟日報社刊)より引用させて頂きました。

「清宗」のキヨシなんです
 家は、刃物なら何でも作る萬刃物工場をやってましてね。父親は民蔵といいまして「清宗」という銘を持つ腕のいい刃物師だった。六歳のときにここ東掘通り十三番町に引っ越してきました。全国から注文を受けて、だんだん弟子や職人が増えて、工場が狭くなって駄目だから、そんでここへ引っ越してきた。多いときは住み込みの弟子や職人が十五、六人いましたね。一階建ての奥が工場で、表通りに帳場とちょっとした商品を並べておくウインドーがあって、間口四間、奥行 き二十五問くらいの家だった。
 打ち刃物屋ですから毎日毎日、それは賑やかでした。フイゴが三台あって、槌と向こう槌、ヤスリや万力、研磨も手作業で、鉄を打つ音を聞いて育ちました。

 こっから清尋常小学校に通ってました。清という私の名前は「清宗」からとったんですよ。父親は私に跡を継がせようと期待していたんでしょうね。

父は刃物職人だった
 父の実家は小今村(現新潟市・新津)の造園業です。父は従兄弟のやっていた刃物製造業の「清広」の内弟子となって、やがて独立して「清宗」を興した。腕のいい職人でした。
 「清広」は上大川前通十二番町で、昔のまんまの工場で今でも頑張ってやっていますがね。
 「清宗」は、刃物という刃物は何でも作ってました。大工道具、建具道具、下駄道具などなんでもね。下駄作りの木取りには二十種類以上のいろいろの刃物があるんですよ。当時の昭和の初め頃のね、新潟の下町には下駄になる木型が積んである風景が多かったもんだがね。新潟の打ち刃物は高級で有名だったんですよ。切れるものは何でも作った。九州、四国とか関西方面に多く品物を納めていましたね。それと台湾、朝鮮、中国青島とか当時の大陸にもいいお得意さんがいっぱいいました。

(略)(その後、小学校四年生の時に右手の肘を骨折して曲がらなくなり鍛冶仕事が出来なくなられます)

新商中退、家業を仕切る
 家には番頭が二人いましたがこれが上手くなくて、私が帳場の手伝いを本格的にすることになった。私は湊小学校から新潟商業(現新潟商業高校)に上がってました。ところが家業を助けるために、父親に懇願されましてね、新商をね三年の一学期で中途退学することになった。怪我してね、腕が利かないから、父親のように職人の跡は継げず、どんなに忙しくても刃物工場には入れなかった。だからね、帳場を一生懸命に手伝いました。毎日、全国から注文があってね、それを梱包して発送する。相当な収入で帳簿付けに追われましたね。

 新商では二年のときに小沢辰男(元衆議院議員)さんと同級だった。級長をしていましてね。彼はそれから新潟高校、東大へと進んだ秀才だった。私は小沢さんみたいに頭は良くなかったけれども、ビリでもなかったしね、勉強はそう嫌いではなかったですよ。

 同級生でね、現在残っているのは小沢さんと私の二人だけになった。われわれの同級生はね、たくさん戦死してね、ほとんど死んでしもた。この腕のおかげで兵役検査は丙種合格になったろも、おれはまー背も低いからね。当時は不名誉なことでね。乙種、甲種だと確か新発田に行かんばならなかった。小沢さんとはずーっと親友で、いいお付き合いをしています。

引用文は以上ですが、新潟市という地方都市で仕事をしていて、全国を相手に刃物を直接販売していた様子が伺えますし、「新潟の打ち刃物は高級で有名だったんですよ。」という言葉が印象に残ります。
長島さんが宗則を名乗られたのは、親方の江川民蔵さんの清宗の一字を継承されたことと、その切れ味も伝承されたことが理解出来るように感じました。


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