越後・新潟県三条の職人・坪一刀・巳沙夫・墨壷・坪・手彫・鑿・名工・大工道具

小山巳沙夫(坪一刀)


 小山巳沙夫さんは本名を「小山操」と言います。第二次大戦回戦間もない頃、に学校を出て直ぐに三条の木彫りの名門半藤政衛さん弟子入りされます。

説明
  師の半藤政衛さんは、三条の木彫の名工で彫銘は「逸我」で、当時の方は三代目でした。
 私の祖父が、第二次大戦前と戦中に掛けて、掛け軸や骨董品を集めていましたが、その頃、半藤さんに鯉を彫った額を造って頂きました。
 自宅の座敷の鴨居に、その額が飾ってあったので、子供の時から、逸我の作品を眺めて育ちました。

次が、三代逸我さんの額です。(クリックすると拡大します)


小山さんが入門した後に終戦になります。終戦後の景気が沈滞していた時は、師匠も、美術品である木彫りの仕事が少なかったそうで、半藤さんの弟さんが小山さんを誘って二人で墨壷を造って売ることにして、金物問屋を廻ったのだそうです。
その時に、当社にもお出でになり、当時、私の父がお相手をして、以来、お付き合いをするようになったものです。

小山さんの作品の銘に「坪一刀」が使われていますが、これは小山さん自身の銘ではなく、当社で頼んだ作品にだけ彫って頂いた、所謂、当社の問屋銘でした。ですから、他の問屋さんに納める作品には、この銘は使われておりません。
私の会社は祖父外山栄助が明治44年に創業し、当時、父の時代になっていましたが、父が栄一と申したことから、お付き合いの初じまった時に、当社の作品に坪一と切るように頼んだのだそうです。
これについて、小山さんが次のよう話ておられました。
『私は坪一よりも、刀を付けて坪一刀にした方がよいと考えて、以降、お宅に納める作品は「坪一刀」にしました。』とのことでした。一般に小山さんの銘と思われている坪一刀は、実際には当社の銘なのです。

間もなく、朝鮮戦争が始まると景気がよくなって、半藤さんの弟さんは東京に行かれたそうです。
小山さんの話では、最初は若葉坪を造っておられましたが、親方の仕事が増えるに従って木彫りのお手伝いすることになりました。
元々、墨壷はアルバイト的に始められたので、木彫りの本職の仕事があれば、そちらに注力されることになり、本業の木彫り仕事をしながら、時間に余裕がある時にだけ墨壷を造っておられたのです。

作品は、その後、彫りのある鶴亀が主になり、更に、緻密な龍彫の墨壷を製作されるようになるのです。

私が会社に入ったのは昭和35,6年頃でしたが、当時、職人さんへの注文は全て注文書を持って、直接訪問してお願いに行っていました。更に、腕の良い職人さんには注文が殺到しましたので、作品がなかなか出来て来ない職人さんには、しょっちゅう催促に伺っていました。そして、職人さんと話をしながら出来るだけ仲良くなって商品を廻して貰うように勤めるのが大切な仕事だったんです。
小山さんの作品は高価でしたが、数が出来ないため、何時も注文が溜まっていたようで、それを催促に行くのが私の仕事でしたので、良くお伺いして、作業している隣に座ってお話をさせて頂きました。
当時、半藤さんのお宅は私が出た三条高校の正門前の角にあり、お庭が黒い塀で囲まれていましたが、その塀に扉があって、そこから入るとお庭の一部が畑になっており、その端にあった、昔、鶏小屋として使われたような感じの網で囲まれた小屋があって。小山さんは、そこで仕事をされていました。

  そのお庭に畑があり、半藤さんの奥さんが、時々、畑仕事をしておられました。
  私の祖父が半藤さんに彫り物をお願いしたことがあるのを、奥さんがご存知でして、
  私を見ると、良く「外山さんの仕事を早くしてやれば良いのに。」 と言っておられました。

頼んだ商品が出来て来ない職人さんを訪ねた時、お仕事にもよりますが、良く、隣に座って話をしたものです。
小山さんの隣で、次のように質問したことがありました。
どうして龍の胴体を池の周りにずっーと彫らないんですか、と尋ねたら「波と雲の中から、このように出たり入ったりする処に見所があるんです。」と言われて、なる程と思ったものでした。

龍彫は少し大型になると鱗一枚々々に鎬を付けて彫っておられましたので、どうして鱗を平に彫らないんですか、と言ったら「鱗はこうなっているんだよ。」と言われました。
また、こんなことも言われたことがあります。
「以前、龍の角を頭から離して彫り上げていたんだけど、角が折れたことがあって、それからは頭に沿って彫るようにしたんです。」

小山さんは、やがて師匠から独立されて郊外に自宅を造られます。
それからは、ご自宅に催促に伺いましたが、二階に専用の仕事場が造られてありました。

下の写真は、ご自宅で撮ったものです。

自宅に移られてからのことだったと思います。

地元のカネ直さん、飯山嘉吉さん、山田三造さんの3軒の問屋さんが資金を出し合ってプラスチック製の墨坪を造る計画を始められた時のことです。(3軒とも、当社と懇意な問屋さんでしたが、現在残っているのは山田三造さんだけです)
一番形の良い鶴亀坪として小山さんの作品が選ばれたようでしたが、お付き合いが無かったようで、当社に小山さんに原型を頼んで欲しいとお願いに来られました。
父がお受けして、小山さんをお呼びして、お願いして造って頂いて、出来上がったのが長雲の墨坪です。
残念なことでしたが、プラスチック製が出来てから古くからの木製の墨坪の売れ行きが減ることになります。


小山さんが、長雲の金型のことで、後で話をしておられました。
「プラスチックを成型後に金型を抜くため、場所によってV字型に出来ないんだよね。」

左の写真は小山さんの鶴亀坪と長雲の墨坪を比較するために、並べて撮ったものです。(クリックすると拡大写真をご覧頂けます)

小山さんは木彫り師だったことから鯉の形の墨坪、それも鱗を一枚々々綺麗に彫ったもの、獅子の形の墨坪等々を造っておられましたが、私は昔からの墨坪に固執していたため、購入させて頂いたのは全て墨坪の原型での名品でした。
ある時のことです。突然会社にお電話があり「総杢目材の龍彫で今までで一番大きな作品を買ってもらえませんか。」と言われまして、高額でしたが、即、現金(私個人のお金)を持参してお伺いしました。

その時、見せられたのが同じ構図の龍坪で普通材の2尺(600ミリ)のものと総杢目材の約520ミリの2点でした。
「実は倅達に相談したら普通材の2尺を残すよう」に言われたので、総杢目材の方を買って欲しい、と申されて購入して来ました。

この約520ミリの作品が小山さんが一生で総杢目材で造られた最大の作品とのことでした。

その時に撮った2尺の作品をお持ちになっている写真です。(上の写真と共に平成18年9月20日に撮ったものです)

その後に次のように言われました。
「総杢目材を使った八寸より大きな作品は、今まで10ケ造りましたが、その内の7ケをお宅から買って頂きました。」
小山さんから仕入れた作品は私が販売しておりましたので、小山さんとは催促から販売まで私が一番懇意にさせて頂いたと思っています。

更に、次のような話をされていました。
「燕市に新しい神社が出来て、そこの置物などを沢山注文を頂いているので、もう、墨坪は造らなくても良い。」
先に書いたように、木製の墨坪の時代が終わりに近付いていた時でしたので、とてもよかったと思っていました。

私が昔所蔵していた総杢目材を使った作品5点を撮った画像が出て来ましたのでご紹介します。(実際より手前の作品が大き目に写っています)

次の画像をクリックすると拡大写真をご覧いただけます。

残念ですが人間には寿命があります。
小山さんは平成21(2009)年4月 82歳でお亡くなりになりました。
ご懇意にさせて頂いたことを感謝しています。

その後も、小山さんの作品を収集しており、現在所蔵している龍彫坪を掲載しました。
次の画像をクリックすると拡大写真をご覧いただけます。

小山さんの作品は次のページでも、ご覧いただけます。
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