満州出張取引き

当社は、私の祖父が当時の三条の大手問屋の山弥金物(有)に7年勤務してからカクイ外山栄助商店として明治44年に独立開業しました。
二代目は栄一(明治39年生まれ)で、19歳で最初の出張をしたと聞いています。(栄一は後に襲名して二代栄助になります)

現在の社名の外栄金物株式会社は、昭和24年12月に法人化の折に改称したものです。
次の一文は、二代栄助が生前に書いたもので、戦前に満州へ出張した時のことを書いています。一部分は、直接話を聞いたこともありますが、当時の満州の状況と父・・・、あるいは三条の金物問屋がお得意を拡張するための行動力を示す珍しい文章ですのでご紹介します。

三条金物ニュース昭和53年3月15日号・4月15日号より

「満州出張取引」 外山 栄助

私の話は時代遅れの昔のことばかりで読者から「現代に通用しない大昔のこと」と笑われるかも知れない。然し三条金物界の歴史の中にこんな一頁があったのかと知っていただければ本望である。
むしろそれが我々生き残りのものに課せられた義務ではなかろうか・・そんな願いで筆を採ってみる。

私が若い時代を回顧するとき、父の開業出発当時の苦労話を思い出すが、父が折にふれポツポツ話す耳から入った記憶しか残っていない。
幾多の物語リを秘めた貴重なものが多かったであろうが、自己の生命と共に消え去り、惜しい哉詳細な記録は何にもない。矢張り書いたものを後世に残して置いて貰いたかったのである。

今から四十余年前のことである。
日支事変勃発で間もなく第一回の召集令状で応召、新発田留守部隊に次々に召集された現役兵補充兵の教育係として一年ニケ月間勤務、召集解除されて帰宅したとき、ヤレヤレ命拾いをしたという安堵感と、一年余の空白で営業の面でほ遊んでいたと同じの大損をした 思いが、急速に私を対満出張取引へと駆り立て、その引金となった。

難関は語学である。支那語のイの字も知らない私はラジオの支那語講座のテキストを買って毎日渡満準備の傍、その時間になると勉強を始めたのであるが、なかなか語学音痴の私には憶え切れない。こんな泥縄式では駄目だ、当ってくだけろ、どうにかなるだろう、言葉は現地で実際の体験で憶えよ。

行こうと意を決し、兎に角出発することにした。(渡満後テキスト勉強は全く無駄であったことを知る。)ドッシリ見本を詰め込んで八貫匁(三十二kg)片手で提げて二百米も歩くと手が抜けそうになる程の重量故、ドッコイショと肩にかついでの出発である。肉体的の労働と苦痛は軍隊の重機関銃隊で鍛えたのでさして苦にならぬ、張り切った頃である。新潟港埠頭迄、父が見送ってくれ、船が見えなくなる迄手を振って私の壮途の無事を祈り激励してくれたことも忘れられない。

二日二晩の船旅、船・汽車とも二等(今の一等)の通し切符故、船中は快適である。船室は四人の個室、食堂も食事も相当なもの、入浴も陸上旅館と変らない。三日目の午前北鮮の清津港着、満州国境の税関で手荷物検査に引っかかり、その厳重な検査に先づ驚かされた。
刃物が多く、特に刃渡リ一尺の白鞘短刀が二本(岐阜県関産)出てきたので危険物か兇器として疑いを持たれたらしい。

次の列箪時問スレスレに漸く例の短刀と池の坊鋏が欲しいことが判り、帰国後に送ると約束して曲りなりにも通関して、満州入口のともん第一の街圖椚(ともん)へ到着、(次の渡満からこの税関所長氏と懇意になり世間話のうちに通関された)生れて初めて満州の土地での第一夜を経験した。

日本人経営の旅館だが夜になると一月の寒気に震え上った。広い部屋に炭火を入れた火鉢が一つポツン。寒冷地独特のぺーチカの設備もない。ストープも電気毛布もない時代である。夕食の膳部に出されたマグロの刺身が氷結してガリガリと固くて味も、うま味もなくて、とても喰べられるものでない。翌朝便所で用を足していてフト下を覗いてみて驚いた。氷の山でその尖端がお尻につきそうになっている。つららの逆立ちの様に……汚物の臭みも色もない。人問の排泄物がこんな形で積るとは美事?と言おうか否驚くべき寒気である。後とも先ともこんな設備不良の旅館はこの宿だけであった。

サテ旅館で聞いたO金物商社へ参上した。杜長は大阪出身の人で満州全土の販路を持つ卸問屋であるとの事。相当の成功者らしく話が大き過ぎて呆気にとられる位で「先日水晶の山を買ったがこれは儲かるぞ!!」ホレこれを見てご覧と、水晶特有の無数に尖った尖端のある小児の頭大の大きな塊を見せられた。
内地に別荘を二つ買ってあるとか、法螺かと思えど真実の様でもあリ、話を半分に割引いて傾聴したものである。注文も無造作で大雑把である。両刃スリ込鋸三・四・五吋各二百打宛、六吋二百打といった調子で其他併せて約三千何百円、満州取引は一切荷為替付(ツマリ代金引換)故、貸倒れの心配はない。

利率は大体満州へ(売り込んでいた三条の)先輩諸氏は原価の倍に卸してる噂故、私は四割乃至五割掛けた値段で通したのであるが、値段の交渉は何にもない。
多分先人より安かったのだろうと判断して大いに気を強くし、自信と共に勇気百倍したものである。

今の金額にして約七、八百万円に該当するか……ちなみに兵庫県三木へ出張して五日間で約三千五百円集金して上の成績と言われた時代である。 圏椚の街で気をよくして次の目的地牡丹江へ行く。列車中に漂う独特の匂いがする。満人の常食するニンニクのせいであり、ここは満州であると改めて自覚する。牡丹江の駅は煉瓦造りの立派なもので、駅前通りも整備され家並みはマバラではあるが、日本人によって開拓された街故、内地の駅前と大差がない。

人力車で此の街の銀座通りをキョロキョロ見廻す。流石にその町名の如く街の商店街であり開拓地としては梢々まとまった街並風景である。この市街の中央にあるY金物小売店へ入る。緒麗に陳列された店内は当時としてはモダンな店である。この店から利器工匠具以外の家庭金物の注文を多額ではないが可成り満足すべき商売が出来た。このY商会との出会いがお互いの運命にかかわる重大なる将来が生れるのであるから因縁は不思議なものである。

これは余談になるがその後Yさんが故郷の富山県へ引掲げることになり、私が氏の店を商品共譲り受けて、兼ねてから渡満の希望をもつ弟に牡丹江支店として一切を任せ独立させた後日物語りがある。

そして弟は妻同伴でこの店の経営に当たり幸福な生活のうちに喜びと希望を抱いていた僅か二年後に突如ソ連軍が満洲へなだれ込み、関東軍の精鋭が南方戦線へ転出された手簿に乗じて攻め入って来た・・と同時に弟は現地召集されて関東軍に編入され不幸にも戦死したのであるから、人間の運命は紙一重で一寸先は闇と謂うが分からぬものである。
サテ牡丹江でY商会の他に二店取引きを済ませて旧市街を見物する。満人ばかりの市街で赤を主にした矢鱈原色の旗や店飾りの目につく所謂純然たる支那人の街である。
昼食時になったので満人食堂でハヤシライスに似た支那料理を注文して喰べてみる。味はづ先づだが喰べてるうちにカチンと歯にあたる固いものがあったのでその異物が何んであるか手にとって何度も眺めてみるに人聞の爪の様に思い当った。これが話に聞いた人肉混入料理だなと考えたら、途端に食慾を失い気味悪くなって釆た。

満人に麻薬中毒患者が多く、厳寒の街角に壁に寄リかかる様にシヤガミ込んで陶然と桃源境の居睡りをしてるのを見かけるそうだが(私も後日見た)それが其の侭の姿勢で翌朝凍死してるのが多いと聞く。その遺骸が秘かに食堂に料理されて客に供されるとか、話に聞いてはいたが渡満早々の私が問題の人肉混入の料理を喰べようとは、誠にどうも気味の悪い原始的な肌寒い体験である。何んとも殺伐な時代でもある。

牡丹江で三店の取引を済ませ北満の桂木斯(ジャムス)へ行く。この街は三条から私より先に満洲取引をしておられた先輩四社の方々は未だと聞いていたことと、軍が積極的に開拓 に取組んだ所謂北満の守りと目された土地故将来性の期待を最も感じさせる街である。従って開拓も急で日本人街等は牡丹江に遜色のない程で、同じ様に銀座通りがある。
牡丹江のY商店氏の知人で桂木斯日報の新聞記者をして居たのが新らたに金物小売店を開業した。郷里は熊本県出身の人で、誠に温厚篤実の好感のもてる青年でこの店へ先ず参上する。

将来桂木斯へ私共の支店を併設するに当りこの竹下青年を頼り同店に末弟と妹を同伴、約一ケ月居候して同唐の精神的なバックアップに依って同じ銀座通りに店を一軒買い取り金物店として、改築して煉瓦造りの店舗室元成し、末弟を主人とし、「三条洋行」の看板を掲げて開店発足したのである(牡丹江支店併設はこの店の後のことである。)万が一にも戦争に負けるなど予想もせぬことで大東亜共栄圏の国策に従ひ、私等兄弟の共栄圏を満洲でと自分なりの構想と夢をもっていたものだが、敗戦で一切の投資々産を棒にふり、身体一つで辛うじて帰国したという結果的には大失敗に帰した。(この末弟は現在の当社専務)この支店の件は何れ機会があれば稿を改めたい。

桂木斯からハルピンに通ずる列車が三ツ目の小さな駅に停車したときである。車中が急にザワく騒しくなリ乗客が一様に駅前を眺めるので何気なく私も駅前を見て生れて初めての珍らしい風景を見た。江戸時代白井権八の物語りにある鈴ケ森の刑場の晒首と同じ生首がニツ駅前にこれ見よ…とばかリに晒されてあるではないか。その首の真下に提げてある札に「大日本関東軍」の文字が墨痕鮮やかに人目をひく、坊主頭の首は既に紫黒色に変色している。

余程腕のたつ剣の達人が斬首したのか、顎の下から美事に切られた生首、胴体のない首丈けが板の上に乗ってる形は非現代的な何んともグロテスクな生嗅い風景である。この辺一帯を出没して荒し廻る匪賊(馬賊か?)の首であるそうな、軍に反抗して治安を乱す奴はこの通りだぞ!と軍の厳罰方針を誇示したものらしい。見たくとも見られぬもの、それは魚津の廣気楼と似たもので、二度と見れない、私の人生の記録である。

佳木斯からハルピンに行く。

一流の満人商杜を三軒廻る。最初の店は播洲で耳にしたことのある大商杜で流石に堂々たる店構えである。
サテ満語に就いて語らねば辻棲が合わないのて、説明しておく必要がある。何にも知らない私でも口もあり耳もあり手足も、また筆談もあり、何んとか通ずるものであるが商売は別である。靴ベラを落したので人道の商人から一個拾銭で買ったときはゼスチユアーで用が足りたが、それでは心細いので日本人商姓や旅館で習った日用語と取引の商品名その他を旅館へ着いてから一生懸命に勉強する。
先づ人力軍に乗ると「右へ行け、左へ曲れ、止まれ、一寸待て」などが必要だ、商取引には全部の商品名、寸法、上中並の等級、在庫の有無、発送矛定日、銭勘定、等々大体これ位覚えると行動と書倍にさして不便を感じない、後は日をを重ねるにつれ憶えること仲々警戒心が強く初めからは仲々話に乗って来ない。然し相手を観察する為か応待はよく、矢鱈サービスがよくて、サァどうぞと煙草をすすめ、マッチをつけて呉れるのでソツが無い。初めから積極的に接しないのは僅かの歳月の問に王朝政府から張政府となり今また日本の関東軍の軍政下となり戦禍に幾度も遭過した斜陽民族の自已防衛から来る自然本能かも知れない。だが交際してみると日本人より別な人情味もあり、山気がなく、親切で純情な人間味を知ることが出来る。

私の最も感銘深いK満人商社との取引を想起する。第一回目は何処も同じ見本的の少々の注文だけ、二回目のときには警戒心は全くなく愛想よく笑顔で迎え入れて呉れ快適な取引きが始まった。これは前の見本的の送品が予想外にお気に召したと想像して嬉しかった。 三回目出張のとき、主人が記念写真を撮らして下さいと、プロの写真屋を呼んで私と主人を中央にして従業員十三、四名で撮影して呉れた。次の四回目のとき、最高の親しみと丁重な熊度で応接間に通されてアレを見て下さいと・・・・見ると正面上部に前回の記念写真が引伸されて大型の額に入れて飾られてあるではないか。私にとって意外の光栄であり、この人の友情とも暖かい人間味にふれた気がして何十年後の今尚記憶に残るのである。

そして其晩招待された事も渡満後初めてのことである。夕刻約束の時間になると正確に人力車を連れて旅宿に迎えに来てくれ高級の飯店へ案内された。丸い大型テープルを私と主人と支配人の三人の他に美女三人の接客ガールで囲む。

その女性三人のうち一人が主人の二号さんで三〇才位の目立つ美形である。日本女性としてみても、稀れの美人である。
満人の習慣として客を招待する場合、必ず二号を紹介してサービスに当らせるのだそうである。そのサービスのテープルマナーも立派で感じがよい。支那酒をお酌す次の五回目の出張したときは自分の朋友を紹介(友人の同業者)しませうとて車を呼び、私を連れて案内して下さると謂う徹底した厚意である。日本内地では見られぬ、否信じられぬ位の特異の親切である。

その後想い出す暇もなかったが今筆を採って回顧する時特筆すべきなつかしい記憶が蘇える。
ハルピン、新京、奉天、撫順、大連を廻って帰国するのであるが、第一回の出張で取引は殆んど日本人売買で満人商社一〇店は見本的の少々の受註だけであった。満洲進出の人達は何れも関西、九洲の人が多く、東日本の人は殆んどなく矢張り昔からの伝統の血を引く ものらしい。
初回の全受註高約三万五千円、旅費合計約五〇〇円、日数二十三日間と記憶している。現在約二千倍であるから当時自分で感心する位いの有難い商売である。多少の冒険心と勇気さいあれば誰れでも出来たであろう妙味津々たる商売である。

満州取引では三条で私の先輩四人の方々は(内二人の方は次代)今尚健在で発展しておられるが・・・・此駄文を読まれたなら恐らく私以上の体験を想い出されるのでなかろうか。

以後の出張から自分で取引先を探し求めなくても客が紹介したり教えてくれたりで自然と取引高も上昇して、限られた商品だけに果して三ヶ月後の出張迄にこれ丈の注文品が間に合うだろうか。それ丈の生産能力があるだろうか?などと妙な不安すら覚えたものである。 今日不況と戦うせち辛い、そして苦しい商売のときに正に隔世の感ある往時のことを噛みしめてみることも又味なものである。

追記、其後満洲の西端山海関を経て北支へ足を伸ばして天津に入り、北京、済南、青島と出張するのであるが三条の商人としては初めてのことで、それ丈けに処変れば品変るで珍談、奇談といろいろの体験談があるが折あれば稿を改めてみたい……。

[説明] 
ジャムス店内の写真の八重叔母さんは、その後、好青年竹下さんと結婚しますが、二人の子供をもうけた後に、竹下さんはロシヤ軍の侵攻に伴って現地召集をされ戦死し 子供二人を連れて苦難の末に、それでも復員を果たします。

また、ジャムスの写真の父の末弟、寿夫叔父さんは夫婦で着任しますが現地召集の後、ロシアに抑留され重労働に従事して、伐採した樹木で頭を打ち病身となっために帰されて、復員しますが奥さんは亡くなります。その後、当社の専務として活躍されましたが、77歳で5年程前に亡くなられました。
13年のお店の前の写真にいる富郎叔父さんは、その後、牡丹江に造った支店に新婚の夫婦で就任し子供が出来ますが、やはり現地召集で戦死し、叔母さんと子供も亡くなります。

13年の1才未満の私を抱いている寿恵叔母さんには、その後、実の母以上にお世話になります。バックのバスは、そこがバス亭のために時々留まっていたのですが、私がそのそばへ連れて行けと仕草をして、バスに触ってはご機嫌だったそうです。

父には、まだ、書き残したい事例は沢山あったと思われますが、その後、発表する機会がないまま昭和58年に77歳で亡くなりました。(平成13年7月1日記)

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