三条金物ニュース(昭和52/6/15号より)

三条の職人 第四回 高木越彦


 初代越彦の高木彦治はよし栄の山田栄治(初代海弘・山田長二郎の兄)に弟子入りをし、大正六年に独立創業している。最初は勿論問屋名で出しており、国彦を主体としていた。しかし、段々値段が高くなるにつれ、その問屋が離れていき、昭和六、七年頃越彦印で出すようになる。昔から「山田ののみは高い」と云われ乍らも三条の問屋は注文をした。その中で修業を積んできた初代である。切れるのみであれば問屋に頭を下げて、値段を下げて売ることはない。自然と売れる筈だ。高く売るということは必らずしも金もうけということにはならない。他人よりも努力をし、手間をかけたのだからという気持であろうし、職人とし ての当然持つべきプライドであろう。修業中に越彦は技術を学ぶと同時に、そのような気風を肌で学んだ。

 鮑の初代初弘がある宴会の席で隣席にほめられた時、自分の毎日使う銑でさえ満足につくれないのに他人の使う鉋をどうしてうまくつくれるかと答えたという。
 名工と称される職人は自信家で鼻もちならない人間と謙虚で人当りが非常に良い人間と極端のようである。その差は紙一重と評する人もあろうが、それはそれとして三条という風土の故か、後者の方がどうも多いように思われる。  のみというものは一日で何十本も出来る。それを問屋にもっていき、その分のお金をもらってくる。問屋も小売へと同様である、しかし大工さんはいちく足を運んでそのうちの一本を買いに来る。だから一本ずつ丹念に造らなければならない。というのが父の口癖でした。私もその言葉を忘れずに今まで一生懇命やってはきましたがまだくかけだしです、と謙虚に話しを始めたのは、二代目高水越彦である。

 二代目越彦、高木會八郎は大正十年三月九日生まれで今年五十六才である。昭和八年に県立三条商工学校金工課に入学している。これは本人の希望ばかりではなく、初代の父のすすめでもあった。かじやの息子が上級学校に進むのは当時としては珍らしかったのではないだろうか。本人は何も勉強せずに卒業したと謙遜してはいるが進学を志ざし、大学の講設録をとり寄せて勉強したことがあったというから、真面目な勉強家だったように思われる。

 昭和十一年春、卒業と同時に鍛冶場に入る。勿論その前にも手伝いをさせられてきたからずぶの素人ではなかった。当時は足踏みグラインダーで裏を仕上げる以外は全て銑とやすり仕上であったが、既に越彦は昭和八年にグラインダーレースが入っていた。三条では最初の方ではないかという。又当時弟子が常時三人はいたが、父のやり方が厳しすぎたせいか、仲々定着してはくれず、自然と入ったばかりの二代目に難かしい仕事が廻って来た。父が神経痛で倒れたのは彼が卒業した翌年であるが、否応なしに火造りも自分でやらねばならなかった。二分から五分位の奴を二級品として問屋に買ってもらう。勿論越彦を打つ訳にはい かなかった。

 昭和十六年徴兵検査を受け第一乙種で海車と決まる。昭和十七年九月一日に舞鶴海兵団に入り、昭和二十年九月一日に復員し帰郷するちょうど丸三年間、のみとは縁のない生活を送ることになる。昭和十八年一月南太平洋ガダルカナルヘ補充員として送られる時自分の乗っていた軍のチャーター船が米国の潜水艦に攻撃され沈没。四昼夜ハッチの板にしがみついて漂流したことを淡々と話す。毎日夜が明けて廻りを見渡すと昨日まで近くにいた戦友の姿がみえない。この時こそ、明日は我が身だと観念したという。運よく救出されたのはー割にも満たなかった。しかし、救出された後が地獄だった。先ず気付け薬として六十度のウオッカを飲ませられると無性に水が欲しくなるが、水は与えられず三十分毎に茶碗に少しのぬるま湯を三〜四回に分けて飲ませられ る。腹がへってもおもゆと梅干をこれも何回かに分けて少しずつ貰う丈。落ち着くと今度は無性に眠くなるが眠ると一巻の終りである。向い合った者同士がなぐり合ったりして睡魔と斗ったという。「人間死んだ気持になれば……、」という言葉も彼が云うと真に追ってくる。

 昭和二十年九月に三条に帰る。終戦後物資の欠乏時代にも越彦の処には材料は結構豊富だった。戦時中、生活費を切りつめ、借金をしてまでも材料を買い込んでいたお蔭であった。従って終戦後の混乱時代での再出発は非常に早かったと推測出来るし、形さえあれば売れた時代に戦前と同じ高級ののみが製造出来たわけだから、越彦の名前を更に有名にしたと思われる。最盛期には、男手は親子と弟子で八人はいたし油ふき兼事務員の女性が二人はいたというから三条では生産力が一番充実していた訳である。昭和二十三年三条のみ組合が出来、父が初代組合長に就任している。真に名実共に三条のみ業界のりーダーとなったわけで ある。

 当時、二代目越彦は喜々としてのみに精を出していたわけではなかった。どうものみが好きになれなかった。一生をのみで終えるつもりはなかった。昭和二十五年頃から、戦前父が廻っていた北陸方面の御得意さんを廻るようになる。のみの他に鋸や鉋の見本を持って金物屋の真似をした。金物屋になろうかと迷ったこともあった。

 昭和二十元年六月、恵(ケイ)と結婚。しかし、父の指導は容赦なかった。仕事場に入る途端からどなられ続けであった。自信がなくなり、一層迷った。そのような時、男子事務員の横領事件が起きた、昭和三十二年の事である。在庫商品の横流しである。折からの不況である、多大の損害を受けたばかりでなく、弟子達も一入やめ二人やめで、父と兄弟三人だけになってしまった。越彦のみの大苦難時代である。

 二代目越彦には三人の師匠がいる。のみの師匠は父、刃物技術の師匠は岩崎航介、そして人生の師匠は三代目山田海弘である。昭和三十一年海弘が二代目組合長に就任し、越彦は書記長となる。彼に云わせれば組合長の鞄持ちである。海弘の親分肌に接していると日頃の悩みも忘れてしまう。この時、彼の心の支えとなってくれたのが海弘だった。「のみ鍛冶をやってよかったと思えるようになろう」と良く聞かされた。刃物鍛冶の二代目は駄目だというジンクスを破り、一人前の職人になってやると決心したのもこの頃である。
 折しも、海弘の提唱で岩崎航介を招いて毎月一回刃物研究会が聞かれた。目を見張る思いであった。父の教えることよりも岩崎の話の方が良く理解出来た。のみの製造工程も徐々に自分の思った通りに変えていった。自分の越彦に少しずつ自信を持てるようになった。

 二代目越彦にとって、昭和二十年代はのみの修業時代、二十年代は多感な青年時代であり、四十年代は壮年期と云おうか確立の時代である。昭和四十年には安来の白紙を使いこなすようになり、自分で炭素の含有量を指定するようになる。今では地金も自分独自の材料を注文し、越彦ののみをつくり上げている。

 現在二人の弟と三人でつくっているが、御多聞にもれず、問屋の注文に応じ切れる生産量ではない。そして彼には息子がいない。越彦も自分で最後と最近は観念している。生まれ変ったら、やはりのみをつくるかの問いに「やめておきましょう。」と言下に答えた。こんなに割の合わないものはいやだというのである。好きなプラモデル作りも最近やめた。眼が疲れて仕用がないからという。彼は今年五十六才。しかし、のみについては未だ々々「かけだしだ」と自分では思っている。
    三条の鑿組合が組合として全員で岩崎航介さんの指導を受けたことは有名な話です。

  まず、各自が自分で製作した製品を持参して岩崎さんから顕微鏡で審査を受けたそうです。
  直ぐ、合格した方もいましたが、不合格の方が結構おられたそうです。不合格の方は毎日のように再度作り直して晩になると検査を受けに行きました。
  もし、ダメの場合でも岩崎さんは、どうしたらよいということは決して言われず、ただ、「残念ですがダメでした。」とだけ言われたとのこです。
  それは合格品・・・、要するに切れ味が間違いない品の製法を本人が苦労して自分で会得するために、そういう指導をなさったと聞いています。
  そして、やがて、全ての組合員が合格するのです。
  それ以後、三条の鑿は全て良く切れるという絶大な評価を得るようになったのことです。
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