越後の職人

清廣について

宗則(本名長島平次郎)さんのことを調べていたら、宗則の親方が清宗さんだと解って、宗則さんのページに追加して説明させていただきましたが、更に、その親方が清廣だということが解ってきました。

ところが、その清廣さんが今でも刃物鍛冶をしておられるとのことで、お話しをお聞きしようと思って、清廣刃物さんを訪問しました。
最初に訪問した時に、現在のご当主の清廣さん(30歳くらいか?)が出て来られて、私の質問に対して「私は包丁の製造をしていますが、鉋の製法は教えてもらわなかったので造れません。昔のことは祖母が詳しいです。」とのことでしたのでしたが、丁度お留守でしたので、改めてお伺いしてお祖母さんからいろいろ参考になる話をお聞きしてきました。(18年5月17日)

次は、その時にお聞きしたものです。

初代の清廣は明治4年生まれで、新津市の花屋の長尾さんの生まれでしたが、花は毎日の世話が大変なので、花と関係ない仕事をということで、長谷川家に養子に来て刃物鍛冶になったそうです。長尾さんは今でも長尾草生園としてやっています。

清廣はなんでも造りましたが、主に製造していたのは下駄屋用の鉋でして、最盛期には職人さんが何人も居まして全国に出荷しており、北海道、広島などに多く出していました。今でもその時の広島のお客さんの名前をよく覚えています。

この前、孫が鍛冶をしているところがテレビで紹介されたんですが、それを見た方から電話があって、今でもお宅の鉋を使っているが良く切れますよ、と言って来られた方がいました。

また、ある時、腰の曲がった老人が鰻用の包丁を持参されまして、「私は新潟の某鰻屋(有名なお店でした)に長く勤めて、以来70年経ちましたが、ずっーとお宅の包丁を使って来まして、この包丁には大変お世話になりました。歳をとりまして用がなくなりましたのでお返しに上がりました。」と言って、この包丁を返しに来れたんです。
と言って、手入れの行き届いているけど、研ぎへってすっかり短くなった包丁を見せて頂きました。

ある時、銀行だったか、どこだったかの待ち時間に、置いてある毎日グラフを見ていたんです。
その一番後ろのページに私どもの清廣の記事が出ていまして、お願いして、その本を頂いて来たんです。
と言って毎日グラフを見せて下さいました。そこには松村貞次郎さんが連載しておられた「道具曼荼羅」があって、「剣先クリ小刀」として、清廣の作であるとして写真入りで使い古された小刀が載っていました。

初代の喜寿の祝いの時に、うちを出た人達が集まって撮った記念写真があります。
と言って写真を見せて下さいました。

次がその写真です。

写真の裏に昭和22年とあり、真ん中の羽織袴の方が清廣(本名長谷川治作)さんで77歳ということになりますし、その右側、お孫さんを挟んだ黒い着物姿の方が一番弟子の江川清宗さんとのことで、清廣さんの従兄弟だっだそうです。

私にお話し下さったお祖母さんが中段の左から3人目の淑子さんで当時22歳で、その右斜め後ろの若い方が江川蒼竹さん、右端の中段後ろの眼鏡を掛けた若い方が初代の孫、この写真撮影の半年後に淑子さんが嫁いだ三代目になられた義広さんとのことでした。

非常に珍しい清廣の鉋が見付かりましたので写真をアップします。

次がその鉋刃の裏で、左が寸六(66ミリ)、右が二寸(76ミリ弱)です。


次がその表です。


次は横から見たところで非常に薄いことが解ると思います。上が寸六です。


古い鉋は概して薄手に造られていますが、この鉋も非常に薄手で、寸六は頭を叩いてありましたので二寸の一番厚いところで約7ミリであることと、刃研ぎ角度が随分寝ています。これは下駄屋用でしたので柔らかい桐材を削るためにそうなっているものと考えています。
清廣の銘の下にあるカタカナの刻印は「ホンアラタメ」と書かれており、その意味は「意識を改めて造ったという意味です。」のとことでした。

平成11年1月15日のことでした。
随分のお年寄りが訪ねて来られたそうです。
「私は市内の鰻屋の一〆(いちしめ)に入った時に、お宅の包丁を1ヶ月の給与の値段で求めまして、それ以来70年使って来ましたが、私も歳を取りまして用が無くなりましたのでお返しに上がりました。」と言って使って随分短くなった鰻包丁をお持ちになったそうです。
その包丁を記念にお店に展示してありましたので写真に撮らせて頂きました。
写真は、上が70年使った包丁で、下は新品の3代目の作品とのことです。もともと、下と同じサイズだったものが、70年間の使用で上のように研ぎ減ったことになります。

なお、一〆さんは新潟市で一番有名な鰻の料理屋さんとのことですし、長年お世話になったと言って製造元にお礼方々製品を返しに来られたのは、昔気質の職人さんの心温まる話と思いました。

次はその裏の写真です。


次はその表の写真です。


写真で解りますが、初代の鋼の着け方が棟よりで四角にして着けてあります。
この着け方は岩崎重義さんが同じ漬け方をしておられますが、岩崎さんは清廣さんとは全くお付き合いがありませんので、何故共通点があるのか興味があるところです。

初代の包丁の在庫は既に無いとのことですが、お隣の奥さんが昔に購入した包丁を使ってないのだが、錆びたので研ぎなおして欲しいと言われてお持ちになったので、研いだのが未だ置いてあるとのことで、その写真も撮らせて頂きました。
いずれも初代の作品と思われるとのことでした。

次はその裏の写真です。


次はその裏の写真です。


次はホンアラタメと清廣の銘です。


3丁の内、裏の写真の一番上だけが、鋼の着け方が角の方式なので、もしかしてこれだけが初代で、他は三代の初期作かも知れないと思っています。

お隣さんというのが、石垣の廻った広大な邸宅ですので、どなたのお屋敷ですかと聞いたら、昔、田中角栄全盛の頃、田中派の重鎮だった小沢辰夫元代議士のお宅だったもので、今は新潟市の所有になっています、とのことで、そういうご大家なので何十年も前の包丁を使わないでおかれたのが理解出来た次第です。

初代が最盛期の時、清廣の刃物が何故切れるかということで鋼の研究の大家である本多光太郎博士が取り巻きと県知事と一緒に訪問されたことがあったそうです。
その時に店の前で撮った写真があったのですが、ある時、お弟子さんの一人が貸してくれと言うので貸して上げたら、それっきり帰って来ないと言っておられました。貴重な資料をもったいないことをしたものです。
   本多博士については次のような方です。
      本多光太郎博士は明治3年(1870年)に現在の愛知県岡崎市に生まれました。幼年時代は意外にも学校嫌いの成績の振るわない生徒だったと
      のことで、尋常小学校の頃は『鼻たらしの光さん』と呼ばれていたそうですが「生まれてきたからには、世の中のためになることを一つや
      二つはしなければ・・・」と本格的に向学心が目覚めたのは15歳を過ぎてからだったと言われています。それからは「人間は粘りだ。努力だ。」
      と人の2倍も3倍もの努力を重ねたとされています。

      1897年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)物理学科を卒業後、大学院に進み長岡半太郎博士に師事して磁性研究に取組み、
      1906年に理学博士の学位を取得し、翌年からはドイツ・イタリア・イギリス等へ留学、1911年に帰国し新設の東北帝国大学教授となります。

      1917年に強力な磁石鋼であるKS鋼を、1934年にはその4倍近い保磁力を持つNKS鋼を発明。これは磁性材料発展の基礎となる世界的な偉業で、
      その後の我が国の工業発展に大きな役割を果たしました。

      同氏は1931年から9年間東北大学総長を務め、1937年第1回文化勲章を受章し、以来『鉄の神様』と呼ばれるまでになりました。
      同氏はその後、東京理科大学学長も務めています。1954年に本多光太郎博士は84年の生涯を終えます。
      同氏の墓碑には“鉄鋼の世界的権威者”と刻まれています。
      詳しくは、引用させて頂いたこちらをご覧下さい。

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