こだわりのいっぴん

替刃式鋸の普及

日本独特の大工用両刃鋸は数百年の歴史を持つにも関わらず、今では、ほとんど使われなくなりました。
三条金物卸商組合の機関紙「金物ニュース」に替刃式鋸が市場に現れて普及し始めた頃のことを記録した記事がありました。
古来からの伝統ある両刃鋸が使われなくなる様子を、もう一度振り返って見たいと思います。
         三条金物ニュース 昭和60年8月15日号より
業界漫歩「替刃式鋸の普及」


(略)私達が取り扱っている商品も近年特にめまぐるしく変わろうとしており、古い手道具が電動工具に食われいるのもその一つでしよう。

今年の初め兵庫の新進の替刃式メーカーZ社のセールスマンに会った折、替刃の月産枚数を尋ねましたら、「昨年一月に月産1万五千枚でしたが、今年一月は六万枚でして、それでも品不足です。」との話しでして、その急激な伸び方に驚いたものでしたが、その後、替刃式メーカーで最も先行したR社の方に同じ質問をした所、"現在売れ筋二品種で月に七万枚です"との事でした。この二社間でこの二社間で烈しい競争が行われているのが判ります。
さて、右二社の月産枚数を単純に一年に換算しますと、合計で百六十八万枚になるのですが、替刃式鋸が売り出されたのが、わずか十数年前ですから、それ以前ゼロだったものが、今年百六十八万枚も売れるとすると、これは鋸業界の革命と言わねばなりません。(略)
         三条金物ニュース 昭和61年2月20日号より
替刃式鋸(1)


昨年の八月号の業界漫歩に替刃式鋸を載せて未だ半年しか経たっていませんが、この業界では大きな変化が生じています。
最近Z社の方に会い取材しましたので、もう一度この問題を考えてみたいと思います。
先の記事の中で、月産枚数をZ社六万枚、R社主力二品種で七万枚と書きましたが、その直後のR社の話では全製品の合計なら十二万枚と聞かされ、さすがに先発メーカーだけの事はあると思っていました。

ところが、この度のZ社の話では、その頃は確かに六万枚程でしたが、今は十二万枚になっていますとのことでしたが、市場では依然として品不足状態が続いているため、Z社は値崩れ防止も考えて、わざと増産を控えて品不足にしているのではないかと考えていた私は、驚いてしまいました。(市場ではそういううわさもあったのです。)
伸び盛りの商品の勢いを見せつけられた感じです。

Z社の大工用衝撃焼入れ替刃式鋸月産枚数推移
57年7月 発売
59年1月月産枚数 15000枚
60年1月月産枚数 60000枚
59年1月月産枚数 120000枚

これからの増産予定は新サイズのみ小々増やし、それ以外は現在考えていないとの事でしたが、その理由は、問屋段階では足りない足りないと言うが、小売店での情報を掴んで判断しているとの事でした。しかし、私は当分売れ行きが増え続けるだろうと予想しています。

新しい情報によるこの二社の年産枚数を単純計算すると二百八十八万枚にもなります。そして地元の事もあり、替刃式鋸の販売も三木の問屋が先行し、既存の両刃鋸メーカーに対する影響も三木に早く表れていて、その販売量の急激な落ち込みに悲鳴を上げているそうです。
特にZ社が急進したこの一、二年が悪いそうで、三木の問屋筋のうわさ話で、両刃鋸職人がZ社の前で抗議のストライキをやりたいくらいだと話していたそうです。(冗談でしょうが、心情が表れていると思います。)

最近の商品なら(例えば電動工具なら)いざ知らず、両刃鋸は「古くからの」という伝統のある商品で、変化しても今迄の常識なら百年単位の変遷しか思いつかないのですが、R社によって始まった変化のきざしは加速度的に進み、かって紙巻たばこの出現でキセルが消えたように、また、トランジスターの出現で真空管が役目を終えたように、大工用両刃鋸も替刃式鋸により消える運命にあるのではないか? もしかして、たった今それが進行している最中ではないだろうか? 私はそこまでも想像せねばならないのではないかと思っている今日この頃です。

では何故これ程売れたのかを皆さんはご存知でしょうか、整理して反省し見るのも三条産地として大切な事ではないでしょうか。

替刃式鋸を最初に発売したのはR社で、約十五年前のことです。(Z社でも画期的な発想と敬意を表していました。)
R社によれば初め四年間は売れなかったのが、どういう訳か五年目から急に売れ出して、その後、急速に全国に広がったとの事でしたが、その五年目くらいの時でしょうか、代理店にR社のセールスが同行して来て、「このタル木を切ってみて下さい、刃が薄いので下がりが良く、目が細かいので切肌がキレイです。」とそれは熱心に説明して行きました。
私はその折、導付様の弦がついていて太い物を切り落とし出来ないので、両刃を使う大工さんには適さないと思ったのですが、その後しばらくして一年後くらいか、大阪の大工道具店で凄く売れている事を知り、私の判断が間違ってたことを知らされました。

私の予想に反して売れた理由は、既に合板が大量に使われていたのに、両刃鋸で切るとすぐ目立をしないとダメで、高価な両刃を痛めるため替刃式なら値段が安い上に、目立て代より安い刃を付け替えるだけで良く、また切れ味もそこそこ以上だったのでしょう。薄物用(主に合板用)に需要が広がったと考えられます。

導付と比べて刃長より弦が短めのため、先端を斜めに使って薄板なら十分に切断出来たのです。
やがて関西からだんだん全国に広がり、以前ニワトリかじやが広がったと同じような感じを私は受けたものです。その辺は方々に出張していると広がる様子が良く判ります。この後R社は替刃が間に合わない状態がしばらく続いたのは皆様のご存知の通りです。

また、R社は特許を取得してアウトサイダーには特に強行に対応したため、ずうっと独占的な状態が続き、他の方式で参入したメーカーは方式の違いで互換性がいため、いずれも独占状態を脅かす事が出来ず、二番手のない、以下三番の感じでした。
そして、Z社も当時から独自方式の替刃式を発売していたのですが、やはりその三番手の中の一社でしかなかったのです。

それで先程来のZ社の快進撃がとうして始まったか、次にそれを整理してみたい思います。(つづく)(T)
         三条金物ニュース 昭和61年3月20日号より
替刃式鋸(2)


それでは、先行したR社の独占状態をZ社がどうしてくずす事が出来たかを考えてみたいと思います。まず形から説明します。
R社の主力商品は図Aの型で、刃厚が○・三ミリりしかないため、補強に今までの導突鋸よりやや短かめの弦が付いていて、ために合板等の板物なら斜めに使って十分でしたが、深く切り込めないため本来の両刃の使い勝手を全てカバーする事が出来ませんでした。

 Z社も替刃の固定方法こそ別でしたが、初め同じAの型で参入しますが、市価に喰い込めず苦戦しており、現在爆発的に売れた製品はBの型を発売してからでした。ですから一般に乙社の鋸と言えば、現在てはBの型を指します。
 B型は板厚が○・六ミリあるために、マチの部分をわずかに出た短かい補強で十分なため、板物はもちろんのこと、両刃の横挽と略同じ使い方が出来ました。
 ただR社でも以前から既にB型に当るものを別に発売していて、少しずつ売り上げを伸ばしていた頃でしたので、Z社の製品が爆死的に売れた本当の原囚ぱ、もっと別な理由による所が多かったようです。

 Z社によれば当時、木造家屋に不燃材という新材料が使われ始め、公団融資の住宅には台所の火を使う廻りにかならずこれを使う事が義務付けられたそうです。そして平均的一般住宅1屋当リの使用量を計算すると、この不燃材を約十八m切断せねばならずで既存の鋸を使って切るとわずか四mしか切れないため、耐久性のある不燃材用鋸の開発を研究していたそうです。
そんな訳で、不燃材用の鋸の需要が増えると考えたのです。

 そして昭和五十五年に西独のインパルス社の衝撃焼き入れ機をこの目的で導入したそうです。
 この機械で刃先を加エして不燃材を切ったら四十mの切断が出末たそうで、これなら商品になるのではないかと考えて、不燃材鋸として発売したとの事でした。
 結局この不燃材用鋸は、用途が限定されているため少しずつ売れる程度たそうですが、この衝撃焼き入れを木工用鋸に利用してBの型で発売したのが、現社の商品で、先回書いたように五十七年七月の事でした。

 最近は合板だけはでなく、やはリ接着削で成形した集成材という新建材が増えておリ、いずれも硬化した接着剤のため鋸が持たなかったのですが、集成材の方は厚味があって、A形では弦のため十分な加エが出来ませんでした。

 R社が別型で発売していたB型の商品は普通焼き入れでしたが、Z社の新製品は木工用を目差しながら衝撃焼き入れをしていたため、その耐久性と万能性から大工さんに好評で迎えられる事となります。
 初めの商品が横挽きの九寸目だったため、造作鋸と両刃鋸の九寸がその後大きな影響を受けた事は皆様も御存知の通りです。

 最近、お得意の目立屋さんから聞きましたが、それまでの替刃式鋸はどこのメーカーのものでも、切り込んで行くとかならず右に流れ、薄い枚物には使えても深く切り込む角材には向かなかったが、Z社のこの品だけは真直ぐ下って、しかも切り口もキレイになるとの事でした。
 目立も一工夫してあり、目の頭は平らに揃わねはならないという常識に反して、わざと高低をつけている事は、あまりに有名です。

 両刃鋸の大きい方が電気丸鋸に喰われた上に、今度は、売れ筋の九寸が喰われる事となったのです。その後八寸目が出来ていますので、これかこ八寸両刃が減って行くと見らのす。

 現在一日当り九寸目が五千枚、八寸目が千二百枚の生産だそうですが、(これで合計月に約十二万枚となります)、本社工場の最新設備は全自動の目立て機で、材料さえセットしておけば、人がつかないでも自動的に替刀を作り続け、昼夜連続で一日当り三百五十枚〜四百枚を作る機械が六台あるそうです。 (他にも旧タイプが九台あり、これは全て下請に貸与してフルに動いているとのことでした。)

 また今ではこのインパルスの機械を三台持っており、通常、二台しか使いませんが、後は万一故障した場合、西独製のため修理に1ケ月もかがるために余裕を持たせておくととの事でした。
 こうしてZ社に係わる情報整理して来ますと、ただ単に運が良かっただけではない、なるべくしでなったという一面を強く感じます。

 法律と不燃材の出現に対する研究と対応、商品化のための積極的な設備投資(インパルス社の機械は一台二千万円といわれます)目立てに対する新理論の採用と精度の向上、新商品に対する果敢な挑戦、そしてコスト低減のための新しい自動機の開発等々、常に前向きな姿勢が理解出来ると思います。

 別な情報によりますと、R社でもZ社に遅れる一ケ月で同じインパルスの機械を導入し、不燃材用に使用しますが、一般木工用に参入するのはZの快進撃を目の当りにした後の事で、この遅れの原因は、当時売れていた自社の替刃に封し数倍の耐久社を持っ衝撃焼き人れの品を売り出すと、自社製品の販売数量が大巾に減るのではないかと危惧したからと言われています。
 替刃式という画期的な独削により一時ほとんど市場を独占したさすがのR社にも、その独占のための油断があったと考えたらきびし過ぎるでしょうか。

 現在インパルスの機織は全国で六社が持っていますが、三木に三社、堺に一社、長野に一社、後一社は大企業の三条の名前が出て来ないのは、残念な事です。
 また、Z社も替刃の固定方式では特許を取っていますので、先のR社の時と同じで寡占の進んだ替刃式鋸の後発で参入する事は非常に難しいのは確かです。

 私がZ社のこの商品の発売に当り、R社に対抗するために値段を安めに設定したのですかと聞きましたら、その様な事は一切ありせん。十分に儲かる価格を設定しています。」との話でしたが、他にもZ社では一切の宣伝や特売をしていない、それらの経費をかけていない、ことを強調しておられました。
 うわさではZ社は儲けが出過ぎて困っており、昨年はどうせ税金に取られるならばといって巾に大金を寄付したといわれます。

 一時独占を謳歌したR社も、まさかと思われるZ社の急進でここ伸びが減ったといわれています。それでは将来鋸業界はZ社の寡占が益々進むのでしょうか。
 先の事は誰にも解りません。

ただ、これからも新しい変化がいままでより頻繁に訪れると思います。その折に誰がチャンスを如何につむかが問題だと思います。それは常に現状に満足せず、前向きな努力しているどうかの差として表れて来るのではないでしょうか。
大げさにいえば、三条産地として残れるかどうかが、そこにかかっていると思うのですが。
 なお、この記事を書いている最中に、三条ヘこのインパルスの機械が初めて入る情報を得たことをお知らせしておきます。(T)
  当時、私が「金物ニュース」の編集委員長をしていました。
  この記事は私が書いたものですが、両刃鋸が替刃式鋸に取って変わる歴史的な変化の時を記録しておきたくて書きしるしました。
  数百年位の歴史のある両刃鋸が大工道具の主役から降りることになった時代の記録です。
  私は用途によって、もう一度、日本で独特の発達を遂げた両刃鋸が見直されることを願うものです。

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