新潟日報2012/7/30号より

交流の恵み 越佐と北前船

「出雲の鉄と金物の町」「原料供給 営み支える」

 流通一手に三条商人奔走

新潟の産業事始めには、江戸の昔に種がまかれたものが少なくない。「金物の町」「刃物の町」三条では1658〜61年の万治年間、驚職人が既に専業の集団を形成していた、と県史にある。鍛冶職人は和釘に始まり、鎌や包丁の刃物類、農具へと営みを広げていった。時は移り、近在の屑鉄だけでは鉄材を賄いきれなくなっていく。一方、遠く離れた中国山地では、良質でふんだんな砂鉄と炭材を使った、たたら製鉄が、江戸後期から生産の最盛期を迎えようとしていた。近代製鉄の後景に退くまで、そこからつくり出される鉄は、全国の7、8割を占めたともいわれる。

 諸国への供給は、その多くが出雲(島根県)の安来港から船積みされた。越後には日本海を往来していた北前船が、上方回米の帰り船の底に積み込んできた、とされる。なにせかなりの重さである。航行の安定には好都合だったようだ。
 出雲の鉄、鋼が県内で流通していたことを示すいくつかの史料がある。その一つが1858、59(安政5、6)年、出雲崎の回船問屋出雲崎多助が扱った鉄類の取引概況だ。

 品名、数量は、刃物や金物の材料となる綱140貫目、鉄222束:・(1束10貫目、37・5キログラム)などとある。売り渡し人は雲州国(島根県)の商人、片や買い入れ人には、出雲崎多助のほか、三条とのつながりを強く印象づける「三条町弥助」ら商人の名前が並ぶ。

 1867(慶応3)年、出雲崎の町年寄が代官所に提出した答書にも鉄材9千束ほどと、出雲崎にはかなりの量が入荷していたことが分かる。出荷地は山陰の出雲、石見(島根県)、伯耆(鳥取県)だ。鉄を受け入れたのは出雲崎だけではない。西回り航路が整備された後の1697元禄10)年、新潟顧には西国から木綿、小間物に交じって鋼鉄類が含まれていた記録が残る。やがて、明治10年代初頭になると、移入鉄数1万6千束と、北国最大の鉄の移入港となる。同じころ、直江津、柏崎、寺泊 の各港にも鉄材が入っている。



 ところが、港からその先、三条をはじめ、和釘、鑢の燕、大工道具の与板といった産地に誰が、どのように運んだのか、 真相は分からない。
 例えば、新潟からは信濃川の舟運で、あるいは寺泊からは陸路を馬か牛でそれぞれ供給された、と考えられる。出雲崎はどうだろう。何本かの峠越えのうち、鋏鍛冶の経騨もある三条歴史研究会前会長の佐藤茂さん(81)=三条市荒町=が有力とみるのは、傾斜がなだらかな阿弥陀瀬峠↓与板ルート。「与板まで出れば黒川があり、信濃川を経て簡易に持ち込 めた」と思いを巡らす。
 その一方、「出雲の鉄や鋼は高価なため、屑鉄をリサイクルして使っていた零細な鍛冶屋も多かった」とは、三条の鍛冶文化をけん引してきた一人、岩崎重義さん(79)=三条市高安寺=の見立てである。

移入された鉄や鋼は、問屋から小売商、鍛冶屋へと売り渡されていくが、これらの商いを一手に倣ったのが、金物を専門と した三条商人の存在だ。
 三条商人は販路拡大や値決めのほか、最先端の情報をもとに職人に新製品を作らせ、品ぞろえと質の充実に努めた。  お得意さまは、大消費地を抱える関東全域。荷物は信濃川から魚野川を経由し六日町へ。陸路三国峠を越え、倉賀野(群馬県)、利根川の本支流を下るコースをたどった。


 金物の町は、こうした商人の才覚、職人の技が、出雲の鉄を触媒として、形成されていったのだろう。その後大正年間、戦争や震災の特需で、一層の輝きを放つことになる。

 鉄をめぐる出雲との交流は今も続く。たたら製鉄の歴史を伝える安来市の和鋼博物館に、刃物類や商圏図など、三条の資料を展示するコーナーがあるのはその一例だ。三条には相場商事のように、安来で生産される鋼を取り扱って90年近い会社もある。5代目の相場亮嗣社長(57)は、出雲との代々の縁を誇らしく思っている。
 「歴史と伝統があり、しかも高品質。何物にも替え難い」      文・編集委員   神田 敬輔 写真・写真画像部  富所真太郎

 【メモ】
三条市史「明治の金物」によれば、1874(明治7)年、三条には353戸の鍛冶職人がいた。三条鍛冶は、一貫生産と複雑で微妙な形状にも対応できる鍛造技術に特長がある、といわれる。
 1993年、伊勢神宮で社殿を20年に1度建て替える「式年遷宮」に三条の和釘が採用された。2013年の式年遷宮でも使われ、三条工業会は既に28万個の和釘や金具類を納めた。市内には、職人が鍛冶体験や刃物研ぎの実技を伝える「三条鍛冶道場」があり、伝統の技を継ごうと、「越後三条鍛冶集団」も組織されている。09年には、三条打刃物が国の伝統的工芸品の指定を受けた。

 【参考文献】「県央」、「出雲崎町史」、「三条市史」、「ふるさと三条第19、20号」ほか
      新潟県の海岸に記事の中に出て来るように、出雲崎という古くからの港がありましたが、この名前は出雲から
      の舟が着く港として付けられたと聞いていました。
      現在は三条市と合併した山手方向にある旧下田村にも、たたら製鉄の跡ではないかと思われる遺跡があると聞
      いています。(外山記)

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