「金物と草鞋と」より引用しましたが
「金物と草鞋と」には鳥羽万亀造の「故老行商談聴書帳」より引用したと説明されています。

岩崎又造


 一、みちのく父子二代の旅

                                           岩 崎 又造(四代)

 「慶応二年、二十六才の春以来、毎年単独で奥羽の旅に出かけたものだが、その苦労は全く命懸けで、今人には想像も及ぶまい。」と在りし日の先代(三代)から聞かされた。・・・・・
 亡父は二十貫目以上の品物を自分で背負って行ったものださうです、関東方面と追って土地の開け方が活発でなかったた めか、当時はまだ荷宰領任せの送り荷などは無かったものと云われてゐました。

 気の小さい旅人は、名前を聞いただけで、溜め息をついたものだという羽越国境名代の難所、葡萄峠を越えて目指す所は 三条の古い商得意地の鶴岡。(旧、庄内)鶴岡で一と商ひして出立つ。次で港町で知られた酒田、日本一の大地主、本間様の 邸宅などは遠見の驚嘆で一意商売に励む。酒田を立って次に通る宿場が象潟、その昔俳聖芭蕉が詠んだ句で、奥の細道の中 にあると云う、「象潟や雨に西施が合歓の花」の謂はれを、土地の故老から聞かされて、義理で叩く感嘆の膝、それから本 荘、次は二十万石城下町の秋田(旧、久保田)です。話に聞く秋田蕗の大きいのを見ずで賞めながら一と商売、次には土崎 を訪ね五城目と飛び、長駆して大館の駅、大館を立って秋田の領分では端っこの矢立峠、峠を越して行き行く先は津軽領の 碇ケ関、この両方に関所、番所があって宿場役人の眼が異様に光る。それからは一路道草喰はずに弘前へ行ったやうです。  弘前で一と店開いて次は黒石、それから五所川原、海手近くの鯵ケ沢、引返して行き着いたのが最後の商売地青森……と 大たい斯ういふ順で巡ったと、亡父は話て居りましたが、主として城下町の商売に力瘤を入れたことは、その宿場名を見て も判ります。尤も青森まで延(ノ)したのは三年位後のことヽ思ひますが:・・:

 当初持参の品物中、一番売れたのは伊之助の鋸で、向ふでは伊之助の鋸が無ければ金物屋でないと、莫迦にした人さへ有 った位に其の名前が通って居たさうでした。その頃はまだ三条の金物も種類が余りに少く、随って沢山の商ひが出来なかっ たものといはれますが、商ひのやり方は、まず一つの町へ行くと「荷開き」といふことをやります。然うして土地の金物屋 さんを御招待して其所へ買ひに来て頂いたといひますが、段々と旅を続け、秋田から弘前、弘前から青森へ行くという風 に、其の土地々々へ行っては荷開きを行る。それが最初の中は何処へ行っても金高に成らない。とりわけ青森では余んまり 売れないので、さすがの親父も首を傾(かし)げたのを見て、気の毒がった土地の金物屋の渡辺さんといふ人が「越後の岩 権さんはこの次はもう来られまい」といふて特別のお情で残品を全部買ひ上げて下さったさうです、そんな風に、商ひ高少 なの経費沢山で閉口したことは一度や二度に止まらなかったといひますが、しかし初期の数年間は、勿論損は覚悟の行商な ので、その翌年もまた矢っ張り百五十里の道を自身荷物を背負って行き、それを縦年繰り返したさうで、文字通りに骨身を 削っで、漸くのことで西海岸一帯に商地盤を作り上げたといはれます。・・・・

  さて期うヽ親父が頑張った西海岸の行商記を、一気にしゃべって終ひぱ何の変哲もないやうだが、いざ実地に草鞋を踏み  出した身になると生やさしい旅では無かったのです。一番困らされたのは御一新前後のどさくさで、世間が騒はめいで居る  道中を、背負荷物の一人旅だといふので関所や番所の大態(ニンテイ)調べが途方もなく八釜しかったことです。弁解に骨  折った難所は青森と秋田の境界地、矢立峠だったさうで、当時の双方は犬猿も啻ならぬ不仲の間柄で、関所の番大は敵国へ  弾薬でも運ぶのでないかとの疑ひから、遠慮会釈もなく背負った荷物を槍でつヽ突く、一つ間違へぱ背中へ真槍がグサリと  来る、イヤその危険さ加減、全く形容の言葉がない、工合ひよく背中までは槍が通らなくとも、荷物中の鋏の一部は必ず合  ひ刃が狂って閉口したものださうです。やヽ後になって知ったのですが、その番人も色金(わいろ)というものを使へぱ無  事に通して呉れたもので、上役が十両、下役が五両が通り相場。その頃の金としては目玉の飛出る程の大金だったが命には  代へられぬ。

 旅馴れぬ身の悲しさで、然うした抜け道も二、三年は知らずに素通り旅をやったので、その都度寿命の縮まる思ひをした さうです。役大共が一番難かしかったのは津軽側の碇ケ関だと云ひました。たしか後年温泉地となったやうですが、その関 所が峠の真中で老杉欝蒼として昼なほ暗い大森林の寂寞無限境だったといはれます。
 実は私共も十年許りはこの道を通りましたが・・・・・。

 昔の旅は主に国道筋を歩いたものですが、それを今日の汽車の旅と較べたら、随分可笑しな道を辿ったものだと思はれま せうが、そこが遷れぱ変る浮世の姿で、旅する道も又当然変りゆくのでせう。
 亡父の道憶談はこの程度に止めて、序に私の夢多かった若い日の行商記をお話しませう。
 私は明治二十五年の春、十八の歳に親父と一緒に青森まで参りました。その時分は川蒸汽船で新潟までゆき、更に葛塚ま でゆく、それからずっと陸路を途中、寄り道しながら青森まで行くのですが、日数ぱ如何しても十五日を要しました。その 頃はもう二十何貫目の荷物は自分で背負ってゆかず、荷物は船で新潟まで、それから木崎船で葛塚まで送りつけ、その後は 各地の宿場に問屋がありまして、その問屋が馬で運んで呉れました、所謂立て場ですが、問屋といふのは馬の差配をして居 るので却々親切にしてくれたものでした。途中で親父の荷開きするのを見習ひましたが一とロに百五十里と云ふても決して  楽な旅でなく、時々親父に、意気地がないそと励まされました。その次からは一入旅の行商でしたが、漸っと割良く商ひが  出来て利益も見られるやうになったものヽ、高々二千五百円か八百円程度のものでした。尤も当時は物価が安く、旅籠銭は  三飯付きで十五銭、二銭の茶代を置くと草荘を一足づヽ呉れたものでした。その後段々とやって行きます中に西海岸だけで  は商売が小さいものですから、八戸へ行き、盛岡へ行き、それから青森へ行くといふ順路を取ったこともあります。
 荷物は見本品を四、五貫目持参しました。私は青森初旅から三年経って二十一の齢に函館へ行って見ました。その時はま だ四百屯位の船が立派な船といはれ、新潟には二百屯以上の船は一艘もなかったんです……

 話を戻しまして……奥羽地方は右様に販路を開拓して行きましたが、商品は依然、伊之助の鋸が六分通りを占め、あとは 鋏や捻小刀、捻小刀は私から天神前の高山さんに注文したのが初まりで無かったか知ら……、鋸は由来会津の方が早くっ て、向ふから越後へ来たんだと云はれます。鋏は私共が歩いて通ります秋田県の塩越という村に「塩越鋏」といふのが出来 てゐて、それを見本に持ち帰って鍛冶町の樋口四郎平さんに作らせたのが守道鋏の始まりでせう。
 塩越村は秋田県の本荘町から三里許りの所に在り、其所で出来る鋏に「守道」といふ作銘が切ってあった。その鋏は形も 合ひ刃もたしかに良い。それを見本として作ったので、後代になっても昔を忘れぬやうに「守道鋏」と名附けたものヽやう に記憶して居ります。塩越の村は、今では象潟町に合併されて居るさうですが・・・・ナイフは明治二十六年に私が青森の一小 間物店で見付けたものを見本に、五百五十丁の注文を或る商店から受けて帰り、之れを古城町の荒物鍛冶、田中亀七さんか ら造って頂いた。それが三条のナイフの草分け仕事でせう。……
    非常貴重な金物問屋の創世記の記録です。
  岩崎又造さんは歴代又造を襲名されており、私の父と同世代の又造さんもおられましたが、この記事から推定すると、その方は六代目
  に当たると思われます。
  たまたま、床屋が同じところでしたので、床屋に行くとよくお逢いしましたが、とても博学で物知りのお方でした。
  そして、その弟さんが岩崎航介さんです。
文中の当時の伊之助については次ぎでご覧頂けます。こちらからお入り下さい。


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