三条先覚事略より

深澤伊之助


三条の出身で特に秀でた人について、後世の町民に知らせるために昭和2年に発刊された「三条先覚事略」という冊子があります。 そこには私が研究している刀工の栗原信秀についても「名刀家 栗原信秀」として紹介されていますが、そこに「深澤伊之助」についての項目がありますのでご紹介します。

深澤伊之助
伊之助、初メ虎造ト称ス、後父ノ通称ヲ襲イテ伊之助ト改ム。文化十四年三條鍛冶町ニ於テ生ル。父名ハ伊 造後ニ襲名シテ伊之助ト称ス。
深澤家世々鋸鍛冶トシテ声誉聞ユ、初代伊之助ソノ業詳ナラズ、鋸鍛冶ヲ以テ家業トセルハ、二代伊之助即 チ彼ガ父伊造ヨリ創マル、而シテ叉、彼が鋸鍛冶ヲ創設スルヤ、師ヲ覚メズ全ク独創的タリ。

伊之助(虎造)幼ヨリ父ヲ助ケテ家業ニ精励専ラ其技ヲ磨ク、常時未ダ鋸製作ノ技甚ダ幼稚タリ、生金ノマヽ 製作スルヲ一般トセリ。伊之助密カニ謂ヘラタ生金ニ代フルニ鋼鉄ヲ以テセバ、其効果必ズヤ大ナラント、 其ノ製作ニ志セリ、偶々鋸鍛冶トシテ天下ニ聞エタル小煩戸村中屋卯太郎、會津中屋助左衛門ノ両家既二鋼 鉄製ノ鋸ヲ製シテ販売シ居レルヲ聡キテ益々其志ヲ堅ウシ、苦心惨憺獨力ニテ成セリ。

岩崎又造同郷ノ人夕リ、夙ニ商才アリ、常ニ會津、若松、山形、秋田方面ヲ往来シ行商ヲナス、伊之助試ニ 之ヲ又造ニ托シテ秋田ノ金物問屋ニ送ル。問屋ハ直ニ之ヲ出入ノ大エニ使用セシム。大工嘆賞シテ曰ク、体 裁ハ尚改良ノ余地アレモ、切味ノ妙全ク使用ニ堪フト。既ニシテ又造帰ル。帰途、會津若松ヨリ鋼鉄製ノ鋸 一挺ヲ購ヒ来リテ伊之助ニ示シタ曰ク、此ノ如キ体裁ノ品出来ズヤト。伊之助之ヨリ日夜思ヲ凝シ、鍛冶法 ヲ研究シテ、其ノ改良ニ腐心ス、遂ニ成シ遂ゲテ再ビ之ヲ秋田ニ送ル、名声漸ク著レ来リテ彼ノ地ヨリノ注 文年ヲ逐ヒ代ヲ重ヌルニ従ツテ、次第ニ増加シ遂ニ會津品ヲ凌駕スルニ至リヌ。  

深澤家ノ名声今ヤ天下ニ冠夕リ。四代ヲ経タ五代ノ富主ニ至ル。北丿樺太千島ヨリ南台湾朝鮮ニ至ルマデ、 一トシテ其ノ売客ノ地夕ラザルナク、其販路ノ拡大ナル推シテ知ルベキ也、而シク販路ノ今日ノ如キ盛況 ヲ極メシ所以ノモノハ、四代伊之助(虎治)ノ賜物夕リト謂ツベシ、伊之助、為人精恪勤比□ナリ。其ノ何人 夕ルヲ問ハズシカモ手ニ鋸ヲ持スルヲ観レバ、必ズ手ニ執リテ熟視シ、自己が鍛法ノ資トセリ、不断ノ研究心 知ルベキ也、深澤家濁特ノ鍛法ハ他家ノ追従ヲ宥サザルトコロナリ、蓋シ故アル哉。

彼亦風流ノ人夕リ。義太夫ニ得意ナリ、又立花こ通ジ、築庭ヲ好ム、彼ガ築キシ庭園ハ木石配合妙ヲ得、 後人ノ嘆称スルトコロ夕リ。
五代富主ノ邸宅ニ現存シテ異彩ヲ放タリ、明治十九年病ミテ歿ス、歳七十ナリキ。

その後の深澤伊之助も発展の道をたどりますが、何代にも渡って名声を保ち続けていました。
私は大工道具全盛の時代に、三条の大工道具の名声のためにで伊之助こそが最大の貢献者だったのではないかと考えていました。
伊之助はその後も、常に新しい技術を積極的に取り入れて来ており、鋸の製造上に良いと解ると必ずそれを実行して、決して後戻りをすることはなかったと言われています。
現在でも本職用の高級両刃鋸を製造している数少ないメーカーですが、もっと評価されてもよいのではないかと考える次第です。

文中の岩崎又造は三条の金物問屋で草分け的な人で、当時は担げるだけの刃物を担いで出張して売り尽くして帰って来るという商売だったと言われていますので、商才がっあたのはもちろんのことですが、他に体力に優れた人だったと言われています。
そのご子孫が岩崎航介さんであり、重義さんです。
当時の岩崎又造さんについての記録をアップしましたのでご覧になりたい方はこちらからお入り下さい。

伊之助の鋸の売り物は次ぎでご覧頂けます。こちらからお入り下さい。


ホームページへ

inserted by FC2 system