日本経済新聞2007/1/26号、文化欄より

肥後守 切れ味現役

◇親指ひとつで広げられる折り畳み式、最後の職人に◇


 手のひらに収まる折り畳み式の小さなナイフ、肥後守。竹とんぼを作ったり、鉛筆を削ったり。中高年世代には、子ども時代の思い出がたくさん詰まっているに違いない。

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 兵庫で作られ普及
 肥後という熊本県の旧国名が付いているが、肥後守は金物の町として知られる兵庫県三木市で生まれ、作られてきた。一 九四〇年代の最盛期には四十軒が製造し、二百人ほどの職人がいた。だが、時代の荒波にもまれ、今では私の経営する永尾駒 (かねこま)製作所だけになった。
 この辺りは古くから鍛冶が盛んで、戦国時代に豊臣秀吉が戦乱で焼け野原になった町の復興を進めると、大工道具を作る半農半工の鍛冶職人が増えたという。主に大工造具や農具などを作ってきたが、一八九三年(明治二十六年)ごろ、美嚢郡久留 美村平田(現在の三木市平田)で「平田ナイフ」という小刀が初めて作られた。

 平田ナイフの製造に転業する職人が相次いだが、粗悪品が混じるよろになると、評判が下がってしまった。ちょうどそのころ、肥後守は生まれた。一九〇四年(明治一十七年)前後のことだ。
 その歴史については諸説あるようだが、重松太三郎さんという金物商が九州から持ち帰った小刀をもとに、平田でナイフ を製造していた村上貞治さん、私の祖父である永尾重次が改良したのが始まりと聞いている。

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 ルーツは九州の小刀
 もとになった九州の小刀は、布を巻いた柄に刃を取り付けただけの簡単なものだったようだ。それを刃と柄の接合部分で折り畳めるようにし、刃の根もとにチキリという突起を付けることで親指ひとつで刃を広げられるように改良した。断面がV字形の両刃だから、利き手が左右どちらでも使える。切れ昧と使い勝手の良さ、手ごろな値段で肥後守は全国的に知られていった。
 三木市以外でも作られるようになると、混乱を避けるため明治末期に商標を登録し、三木洋刀製造業者組合の組合員だけが使用できる名称になった。一九三三年(昭和八年)に生まれた私は、子どものころから親を手伝い、やはり肥後守を作っていた親せきに奉公に出て、修業を積んだ。
 作り方は昔とあまり変わっていない。青紙と呼ぶ硬度の高い鋼を地金でサンドイッチのようにはさんだ材料をまず切断する。それを火で加熱し、叩いて鍛造する。続いて機械で研磨し、焼き人れをする。焼き人れとは真っ赤に焼けた刃を水の中にジュッと人れるむので、これを繰り返すことで切れ昧がよくなる。
 真ちゅうや鉄でできた柄にはめ込み、かしめという作業でしっかり取り付ける。さらに研ぎを繰り返して出来上がる。研ぎは背が二度、刃が三度。小さなナイフとはいえ工程は二十l二十五に及ぶ。忙しい時には職人に手伝ってもらうが、私と妻・英子の家内制手工業だ。
 一九六〇年、浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺事件が発生。それを機に全国で刃物追放運動が起きると、子どもの肥後守離れが始まった。さらに代替品や鉛筆削りの普及が追い打ちをかけ、「見込みないなぁ、もう作ったらあかんで」と周囲は次々に転業していった。私が最後の職人になったのは職人の中で一番若かったからだ。

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 児童に鉛筆削り指導
 ナイフを使った事件が起きるたびに心が痛む。だが、悪いことばかりではない。長野県池田町の会染小学校では教育の一環として肥後守で鉛筆を削る指導をしている。この小学校では廃品回収で得たお金で肥後守を買い、新人生や転校生、転勤してきた先生に贈っている。我が家に見学に来た同校の先生を通じてその取り組みを知り、生徒や先生たちと交流を続けている。竹のフオークやオルゴールなど肥後守で作った作品を送ってもらったり、作文をもらったり。また、三木市内の小学生も見学に来る。
 百貨店で実演販売をすると「懐かしい」と言って、見本の肥後守で器用に鉛筆を削る中高年も多い。最近はモノ作りの大切さが見直されているのか、売れ行きも上向いている。現在は月間約一万本ほど作っている。もっとも今後どうなるのか分からないため弟子はとっていない。今は生涯現役で良いものを作り続けていきたいと思っている。 (ながお・もとすけ=肥後守製造)

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