越後姫小鍛冶のドイツ奮戦記

ミュンヘン国際匠の技メッセに参加して   岩崎 文子

突然の来訪者

平成九年暮れ近く、ドイツから旧知のディック杜専務、R・ディックさんがひさびさに
来日して、降って湧いたような話を持ち出した。ミュンヘン市で計画している「国際匠
の技メッセ」五十回記念事業の一つとして、「日本の伝統的な鍛冶の技の実演をお願い
したいが、受けていただけないだろうか」とミュンヘン手工業会議所からの意向が打診
された、会期は十日間、越後鍛冶を名乗る夫は、春先に体調を崩していたこともあって
「助手を一人付けていただけるならお請けしましょう」と条件をつけた。
ディック社はヨーロッパで楽器つくりのための部品や工具、刃物などを取り扱っている。
十日程後、ミュンヘンから「助手一名も承知」との連絡が入る。気の小さい(?)
越後鍛冶が難しい顔をして、「ミュンヘンで助手を務めて欲しい」と言った。
私がうんと言うかどうか大分悩んだそうな。
勿論即オーケー、ほっとした時の、夫の笑顔は忘れられない。

不安を抱えての出発、果たして現実は?
ミュンヘン手工業会議所と我が家の間に電話、ファックスが飛び交い、先方の希望に
そって鍛冶遣具一式の整備や必要な消耗品のリストアップなどが慌ただしく始まる。
日本の箱形ふいご二台、大きい金床、天然の耐火粘土、松炭、藁灰、玉鋼をはじめ材料
各種、鍛冶道具のあれこれ、合わせて一トン半を送り出した。
手作業だけでの実演との事、越後鍛冶は三条の七、八十年前の仕事の再現や玉鋼の鍛え
などをする意向を固めていた。
私は世に言う「門前の小僧」を地でいって、長い間の鍛冶場での手伝いや、来客の応対、
自称弟子たちの実習を見聞きしているうちに多少なりとも刃物づくりが分かったような
気がして、独りで切出小刀を鍛えてみようと六十(?)歳のチャレンジを始めた。
時折ご注文の客があり、越後鍛冶の師匠から越後姫小鍛冶文子という銘をつけて貰った。
でも外国で、大勢の人たちが注視するなかで、作業ができるだろうか、不安を感じないと
言ったら嘘になる「大船に乗ったつもりでついてこい」と言われれたけれども、果たして
現実は?

新しい鍛冶場をつくり、もう待ったなし
平成十年三月三日、ひな人形の飾られている東京国際空港からルフト・ハンザ機で一路
ドイツヘ、夕刻無事ミュンヘンヘ降り立つ、出迎えて下さったのは交信の責任者ロシェ
さんと世話係のアキラさん、互いに初対面ではあっても、何故か通じ合えた。

何とも言えない心地よい鐘の音で目を覚ます。
メッセ会場までは歩いて十五分くらい。ゲートを人るとニ十七の常設ホールがある。
来場者人口に一番近い第三ホールの中に私たちの鍛冶場スペースが割り当てられていた。
そこには自称越後鍛冶十ニ番目の弟子、ストールさんが笑顔で待ち受けていた。
彼の本職は弦楽器づくりのマイスター。
四、五年前ディックさんに誘われて来日したおり、我が家にも訪れて越後鍛冶の作を
注文したり、仕事をじっくり見ていかれた。
自作の刃物で楽器を作ろのが夢とのこと、自宅に小さな鍛冶場を持ち、帥匠とは質疑応答
を通信で交わしている。
今回は「鍛冶場つくりの初めから全てを研修きせて下さい」との申し出、私の不安はぐっ
と小きくなる。日本から送った荷物も開梱され、全て無事だった。
土が運ばれ、土問をつくる。大小の鞴が据え付けられ火床が築かれる。大きい火床は玉鋼
を鍛えられるように入念に粘土を積む。ストールさんは時折寸法を測り、スケッチをした。
新しい鍛冶場が段々形になっていく。
名古屋からは大工の達人森田さんが招かれ、会期中に大きな鳥居を建てあげる予定という。
お向かいはハンガリーからのご夫婦でヤスリの手づくり。スェーディンの樵グループ。
イギリスの鉋づくり。エチオピアの手織物の名人、西ドイツの建具職など、お互いに覗
いたり、覗かれたりしながら仲間になっていった。

来場者からどよめきが
いよいよ今日から。二つの火床に火を入れて待つ。日本式だと開会式をするのに誰も何
とも言ってこない。
定刻、入場口から大勢の人たちが波のように押し寄せてくる。慌てて火のなかへ材料を
入れ、真赤にする。ストールさんと組んでトンカン。向こうでも火造りの音がする。
時折水打ちの大きな爆発音も響き、来場者がどよめく。鞴が珍しそう。
人波が切れないけれども、漸く度胸が据わり、嬉しくさえなってきた。
手作業で鉄を削る「せん掛け」、高温で鉄と鋼を一体とする「鋼つけ」、真赤な刃物を
水のなかに素早く突っ込む「焼入れ」。焼入れ前は軟らかくてヤスリで削れたものが、
焼入れするとヤスリを受け付けない程硬くなることを見ている人に体験してもらうため、
適宜ヤスリと品物をおわたしするといった方法を交えて、日本の刃物をつくる工程を
順々に披露していった。
切れる刃をっくる「研ぎ」も大きな反響を呼び、試させて欲しいという熱心な人も多く
現れた。切れ味をためす時は、腕まくりして毛を剃ってみる。さらさらと落ちる毛を見て、
周りの人は手品でも見ているような面持ちになる。師匠はちょっと鼻をうごめかせたり。
ストールさんが時々仕事の内容を皆さんに解説して下さって助かった。初日、道具だて
も調子よく、チームワークは絶妙。

コール首相は温かい手をしていた

ある日、黒いコートの大柄な紳士が屈強な人たちに囲まれ鍛冶場へ上がってこ
られた。
見れば報道陣が周りで慌ただしく動いている。師匠は大きい火床の横座で私は
大鎚を振っていた。一息入れた折り、大きな手が握手を求めて差し出された。
汚れた手をエプロンでちょっと拭き、その手を握った。温かい手の持ち主は何
と、ドイツ連邦共和国首相のコールさんだった。
大感激。

みんなでトンカン、技術に国境はない
五日目、毎日顔を見せ、熱心に仕事を見ている日本人男性に気がついた。自作
の短刀風のナイフを見せてアドバイスを求めてくる。「一緒にやってみません
か?その方がよく分かりますよ」この人は鳴島ミッターマイヤーさん。
ドイツの女性と結婚し在住十一年目とか。
刃物づくりが大好きと言う。結局鍛冶の技を覚えながら、毎日私たちの実演を
手伝って下さった。
来場のお客様から質問が飛んでくると、仲介をしてもらったり、不思議なめぐ
り会いとしか思われない。
親子で見物に来ている子どもたちを手招きすると嬉しそうに鍛冶場へ上がって
くる。
日本の鞴を動かし、炎が踊ると歓声があがる。どこの国でも子供は同じ、好奇
心と勇気に溢れている。

火の仕事をさせてほしいとミュンヘンの人が訪れた。担いできたリュックのなかには
材料や鍛冶道具が一杯入っており、彼がプロなのはすぐに分かった。師匠は、彼がコー
クスの火床を選んで仕事を始めると、見事な腕だと感心していた。初めて会って二人は
技術の話に余念がない。日頃師匠から聞いていた、「技術に国境はない」という言葉を
肌で納得。

ドイツに渡った日本刀をみた
「日本刀(サムライスウォード)」を見ていただけないだろうかと現品を持ったお年寄
りが鍛冶場へみえた。渡された刀を作法通りに鞘を払って拝見する。期待とは違い、
錆が多く随分痛んでいるのが分かる。依頼主の了解を得て、師匠は刀の一部を砥石に
当てる。砥石を替えてまた繰り返すと、一部分が光った。
やがて申し訳なさそうな顔で説明が始まる。
「この刀は二百五十年位前の作品で立派なものだったと思います。残念ですが錆が深
くまで入り込んだ所が多いことと、大きな刃こぼれやひびが入っていますので、命を
回復する方法もありません。きっと大切な記念品だと思いますから、時々油を塗って
保存して下さい」と。
黒山のような来場者も、鳴島さんの通訳が終わると嘆息を洩らしていた。銘は藤原忠廣
とあった。
翌日、今度は青年が長い刀を持参し、見て欲しいと頼んできた。おじいさんの形見だと
言う。これも錆身である。前日と同じく、砥石に当てて刃紋や肌を確かめる。錆を除い
た所を指で示しながらの説明を青年は頭をくっつけるようにして聞いていた。刀に吸い
寄せられるのか人垣も重なってくる。
「これは残念なことに研ぎ減って焼入れした部分が所々無くなり、刀としての寿命が尽
きています。錆もひどいので研ぎ直せば細く薄くなり、修理不能と思います。ご先祖の
記念として時々油を拭き、大事にして下さい」
どのような道を辿って日本刀がドイツヘ渡ったのか様々なドラマを想像した。

自称十二番目の弟子の腕前
火床の調子と、ストールさんが腕を上げるのにあわせて玉鋼を鍛える準備が進んでいた。
実演と共にストールさんへの技術移転でもあったようだ。
玉鋼の塊を火造って薄い板に延ばす。焼入れをして小割り、品質の確認、掌のような台

とてこ棒の鍛着、やがて積沸しに入る。
白熱した鋼を打ち鍛える姿は勇ましい。いつもと違うのは、師匠が大鎚を振ってリード
していたこと位。最終日の閉会を告げるアナウンスが流れる頃には何回目かの折り返し
も終わり、火を落とし始めても尚去りがたげに眺めている人もあった。
素晴らしい土産もの準備にくらべると撤収は早い。僅かな時問ではあったが、ミュンヘン
の街を散策し、世界一の技術博物館もちょっと覗いた。自称十二番目の弟子の鍛冶場へも
足をのばし、研修のまとめもできた。いくつかのパーティーで温かいおもてなしを受けた
ことも忘れがたい。
すぐれた匠の技を持つ人として表彰され、金メダルを頂いたり、沢山の思い出を土産に
持って帰る雲の上の旅は、一所懸命に励んだ満足感と、疲れたけれども来てよかったと
いう思いで一杯だった。とにかく全て皆様のお陰だと感謝しながらの帰り道だった。

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