刃物一代
岩崎 航介(岩崎 重義氏のご尊父です) ドイツ製刃物の実力の前に破れ去った父親の 屈辱を胸に心血を注いだ四十余年の研究生活 八幡大菩薩も御照覧あれ 貿易自由化のおかげで大分外国製の日用品が出まわっているようである。 いくら国産品愛用というスローガンを立ててみても、外国製品のほうが安くて、しかも 品質が上まわっているならば所詮太刀打ちできるものではあるまい。 日本人は果たして、その辺のところをちやんと見極めた上で、商品を選択しているのか どうか、疑わしく思うこともないではない。その一つに、ゾーリンゲンのカミソリとい うのがある。カミソリと云えばゾーリンゲンが最高級品と云う考え方は、いつ頃からか 日本人の頭に浸み込んでしまったようだ。 ところで、ゾーリンゲンが、ドイツの刃物産地の地名にすぎず、そこには何百と云う刃 物工場が集中していて、上から下まで色々な品質のカミソリを送り出しているのだ、と云 うことを知らない人がかなりいる事実を合わせて考えてみると、どこまでが切味本意の 使用者かと、首をひねりたくなるのである。 正直に云えば、ドイツの刃物は私の"父の仇"である。数え年十九歳から還暦をむかえた 今日まで四十年あまりの私の半生は、ただ"父の仇・ゾーリンゲン"を討ち果たすことに 費やされてしまった。 現在、私は新潟県三条市にあるわずかに十坪ほどの、荒壁の工場で、三人の息子と二人         の青年を相手に、自分の納得のいくカミソリを月に三十挺造って生業としているが、こ         のカミソリの切味に関する限り、ゾーリンゲン物を完全に引き離し得た、と思っている。         ドイツ製の最高級品は、理容師の名人ならば一回の研ぎでほぼ千人のヒゲを剃ることが         できるが、私の十坪の仕事場で造られるカミソリで試みたところ、千五百人を剃ってな         お余力を残していた。もっとも、そんな製品が完成したのがやっと数年前なのだから、         思えば随分まわり道をしたものである。         まわり道だけならよいが、そのために、妻子は貧乏という人生大学のドクター・コース         を歩ませられる羽目になってしまった。         私の父は、第一次大戦当時、刃物産地として名高い新潟県三条市で、東南アジアからア         フリカまで、年間百万挺ものポケットナイフを輸出する刃物問屋を経営していた。世界         を相手に戦っていたドイツの、手薄になった市場をこっそりいただいていた形である。         大戦が終わり、ドイツが着々と復興してくるにつれて、日本製とドイツ製の品質の差は         覆うべくもなく、日毎に日本の市場は狭くなった。戦争景気で大きく拡張された設備を         かかえた日本の刃物工場は、大正十一年に至って、遂に総倒れとなった。         悪いことに、私の父は、その前にロシアヘ洋食器を輸出していた。時あたかもロシア大         革命が勃発するや、歴史の歯車が大きく動くようなドサクサの中では、ちょっとやそっ         との借金ぐらい踏み倒されないのが不思議、と云う次第になった。つまり、それやこれ         やで一銭もなくなって、見事に玉砕と云うわけである。         当時私は、旧制新潟高校の文科乙類に在学していたのだが、同級生の中の只一人の非進         学者と云うことになった。満鉄にでも入って広く大陸に進出することを夢みていた私に         は、これは相当なシヨックであった。         文科の学生だから、刃物の専門的なことなど判るはずもなかったが、私の心の中には父         親の敗北を契機として、ある一つの考えが浮かんでいた。我が日本には、世界に冠たる         五郎入道正宗の名刀あり、と聞く。その技術をもってして、何故ナイフ如きものに遅れ         をとらねばならぬのか?         父親を一敗地にまみれさせたドイツの刃物に対しで、報復の一念を胸に燃やしたのが、         いつの日だったか、私も確かには憶えていない。早生まれで中学四年終了で高校へ進学         だから、いずれにしても、数え年十九歳、飛白(かすり)の筒っぽでハサミの油を拭いて         は荷造りしていた、今で云うアルバイト時代の私であったことは間違いない。         ある日のこと、近所の八幡さまへ参詣したとき、私は、南無弓矢八幡大菩薩も御照覧あ         れ、本日より三十年にして、必ずやドイツの刃物を見下す基礎研究を完成し、五十年に         なったら工場の建設をしてみせます、と願を懸けた。その日から、私の貧乏は、決定づ         けられたと云っていい。思えば大時代な話である。         さて、何から始めたら悲願が達成されるのか、皆目見当もつかなかった私を導いてくれ         たのは、偶然古本屋で手にとった高瀬羽皐著の「鑑刀集成」の中に出ていた水心子正秀と         いう武家上がりの刀匠の遺した「剣工秘伝誌」であった。         内谷が判っても判らなくても、エレキのようなものが、私に伝わったのであろうか。日         本刀の秘密を解明してこそ、初めてゾーリンゲン物に勝つことができるのだと、私は 心に決めたのである。         正宗二十三代の孫         呑気な学生生活が一転してしまった環境の変化からか、私は肺尖カタルに犯れ、少時の         間、鎌倉の知人宅へ転地することになった。そこで散歩道に刀鍛冶の家があり、その軒         の壁に何と「正宗二十三代の孫山村綱広」と云う字がかかっていた。         私は憑かれたように、毎月鍛冶場の格子に寄りかかって見物を続けた。先方でも、変な         書生が毎月来てやがる、と思ったのであろうか、そのうちに言葉を交わしてくれるよう         になった。私が、刀の造り方を習いたいのならまず研ぎを学ぶべきであると云ったら、         永野才二師という研ぎ師を紹介してくれた。永野師は私の出身を知って、特に無料で懇         切に教えてくれたのである。         旧制高校を出たとは云え、まだ二十歳そこそこの私は、技術の憶えは早かったろうが、         しかし、大学に進んで日本刀の秘密を学問的に究めたいという欲望は抑えられなかった。         たまたま逗子にいた知り合いの東大生が中学校の教師をやりながら、その余暇に学校へ         出ていることを知ると、私は矢も楯もたまらず、彼の勤めている中学校の校長のところ         へ教師に採用してくれるよう押しかけ談判に出かける仕儀となった。         三条一万人の刃物鍛冶をひきいて、ドイツ刃物への仇討ちを企てる私を拾って下さい、         と私も二十歳の稚気丸出しの強談判となり、とうとう校長に「よし、来い」と云わせて         しまった。もしこの校長が、向こう見ずの私を拾ってくれなかったら、私のその後の研         究はどうなっていたかわからない。以後、九年と十カ月の間、私はこの学校に奉職し、 生活の資を得ることができたのである。 教師といっても、生徒との年齢差はわずか数年だから、仲間のようなものであった。 彼等は私に「鍛冶屋さん」というあだ名をつけた、その頃の教え子に、足の悪い、色青 白き橋本竜伍という秀才がいたが、彼は後に厚生大臣や文部大臣になって、私を驚かせた。         さて、私は日木刀の研究を始めるにあたって、日本中に沢山遺っているにちがいない刀         匠の秘伝書が読めなければだめだと考え、まず東大の国史学科に入って古文書を読む勉         強からとりかかることに決めた。と云っても教師の仕事の余暇を利用してのことだから、         かなりな制約があった。         三年生になった頃、水戸で古寺の古文書凋査に恩師平泉澄教授と同行した時に、水戸の         家老のお孫さんの紹介で、刀匠三代目勝村正勝を訪れた。彼の許には城慶子正明をはじ         め、細川正義、石堂是一の秘伝の巻物が秘蔵されていた。本来は秘伝書など他人に見せ         てくれるものではないが、もう当時は、日木刀の研究をしている学生など他にひとりも         いなかったのであろうか、快く写本させてくれた。これは後々大変参考になる収穫であ         った。         秘伝書と共に、万延元年水戸の浪士が桜田門外で井伊掃部頭直弼を斬ったときの十何本         かの刀の一括注文書が出てきて、びっくりした。         この正勝師は、わしはカマとナタで商売しておる、精神こめて鍛えた刀は金では売らん、         気に入ったら持っていけ、という調子の古風な刀匠だった。私は早速許しを得て入門し、         学校の休みを利用して鎚を持たせてもらうことになった。         三十歳の新入生         「御用の刀鍛錬中は出入りの者たりといえども不浄の者は立入ることを禁ず」という立         札を立てた仕事場は、広さほぼ十坪、フイゴの上に神棚を祀り、壁には七五三(しめ)縄         を張り巡らし、六根清浄、穢れを忌み嫌うのが原則である。女人禁制だから刀匠の妻と         云えども立入ることは許さない。天照大神は女人であるし、妻の作った弁当は食べるの         だから変な話だが、若い弟子の気が散らないと云う程度の効果はあるにちがいない。         ここで師匠と二人で、報知新聞が主催した日本人による太平洋横断無着陸飛行の壮途を         祝して短刀を造ったこともあった。掌のマメがくだけて血が流れ、駆け出しの研究生に         は相当の苦行であった。そのせいでもあるまいが、この時の横断飛行は失敗に終わり、         私たちが精魂こめた短刀は、飛行機と共に今はどこか北太平洋の底に眠っているはずで         ある。         さて、そうこうするうちに文科を卒業して、いよいよ日本刀の科学的な研究をなすべく         工学部の冶金科へ入ろうと思ったが、本来は他学部卒業者は無試験入学の建前なのに、         希望者が満員で試験を受けなければならないことになった。高等学校文科で一年間、微         分、積分をチラリとやった程度では大学入学試験に対してはてんで歯も何もたつもので         はない。         で、私は工学部長だった日本刀の権威俵国一博士に頼んで大学院に入れてもらうことに         し、そこで中学生なみの初歩の化学実験などしながら、うちでは物理、数学の勉強をした。         ところが、二年間そうして待っていたのに空席が全然できない。つまり、理科系の勉強         をやりなおす以外に手がないと気がつくまで二年間かかった勘定になる。         三角関数から、次に微分・積分・物理・化学を独学でマスターするとなるとこれは一仕         事である。昼の時間の大半は教師をし、残りの時間は厳密な時間表を作って、猛烈なガ         リ勉を開始することにした。何しろ冶金を学ばない限り、日本刀の科学的研究などでき         るはずがないのである。受験生としては、完全なロートルの私にとってファイト以外に         この差を縮められるものはなかった。         第一回目の受験は、失敗した。一四〇〇点満点で合格点に三二点の不足、惜敗である。         それから、もう一年の独学が続き、今度は背水の陣と云うところだった。そのころ一緒         になった妻も狭い貸家の二畳の間で息を殺しながら私の深夜の受験勉強を襖越しに見守         っていた。         友人で、すでに東大の講師になっていた人から、発表の前日に「御入学を祝す」の電報         を受けとったとき、あわてて故郷へ知らせを出しに郵便局へと駆け出した私の下駄が脱         げて空に飛んだものだと、今でも妻が笑いながら話すほど、私は有頂天になった。三十         歳の春である。         宮本武蔵に説教した話         いよいよ念願の冶金科で研究ができる私は世界最高の刀である正宗の秘密を探る場にき         たわけである。         まず第一に、現存の刀鍛冶を探し出して、先祖伝来の秘伝・口伝を知らねばならない。         これは考えるほど容易ではなかった。刀鍛冶の組合があるわけではないし、それに皆農         具の製造などを生業としているために一般の鍛冶屋との見分けもつかない。         御大典の砌(みぎり)に御祝として刀を献上した刀匠を調べ、長い学校の休みを利用して         、全国一周の汽車の切符を工面し、北海道から九州、後には満州の新京あたりまで足を         延ばして刀匠の子孫を訪ね歩いた。結局この捜索は前後二十年に亘って続けられること         になったのである。         秘伝とか口伝とか云うものは、刀匠が生涯の実験結果のエキスを書き残したもので、本         来は血判をした入門書を差し入れて教わるものである。しかし刀が衰滅の道を辿ってい         たためか、大半の刀匠は進んでそれらを公開してくれた。         例えば、十文字槍の秘伝を現代に伝える唯一の刀匠、熊本の延寿太郎宣繁を訪ねた時も         そうであった。屋根も壁も藁でできた二坪ほどの粗末な仕事場で、赤貧洗うが如き生活         ながら、団扇をユラリユラリと動かす九十歳ほどの先代と共に秘伝を守っていた宣繁は、         すでに七十歳近い老人であったが、私の来意を知ると、このまま絶えるかと思っていた         秘伝を継いで下さる方もいたのか、と手を取るようにして全部教えてくれた。刀を造れ         ば貧乏になるに決まっているから希望者があっても弟子にしない、可哀相だからだ、と         云う言葉を帰りのバスの中で想い出すと、私はポロポロと涙が流れてきたものである。         いくつかの奨学金のおかげで長い中学教師の職を辞した私は冶金科から大学院へ進み、         そこを三年終了後、大学の副手に籍を置くことを許された。やっと基礎的な勉強が終わ         ったところで、私はすでに三十六歳になっていた。ちょうどその頃だろうか、吉川英治         氏の長篇新聞小説"宮本武蔵"が大評判になり、私も愛読していたのだが、その中の一節         に、一乗寺下り松の決闘の後、武蔵が本阿弥光悦と会うくだりがあった。光悦と云えば         本職は研ぎ師なのに、吉岡一門との激戦後の武蔵が彼と出合って茶器の話などばかりし         ているはずがないではないか、刃のかけた刀を研いでくれと云うべきだろう、吉川英治         ともあろう者がそれくらいのことが分らないのかと、私は大いに気焔をあげ、とうとう         吉川邸へ乗り込んだのである。         何時間か、私は日本刀をめぐってぶちまくったが、吉川氏は静かに私の話を終わりまで         聞いて下さった。それからしばらくして、武蔵が江戸へ出て馬喰町の安宿へ泊るあたり         まで小説が進んできた時、私は目を丸くしてしまった。逗子に住んでいた私の名前をも         じったものか、厨子野耕介と云う研ぎ師が登場して、私が吉川氏に対してぶちまくった         のと、全く同じ内容のことを武蔵に向かって説教しているではないか。         刀の事となると、耕介は眼中に人もない。青い頬は少年のように紅らみ、口の両端に         唾を噛み、ともすれば、その唾が相手へ飛んで来ることも意に介さない。         これは正に私のことである。文学者と云うものは、あんな静かな顔をしながら、よくも         まあ観察しているものだ、と改めて感心したが、その耕介が、相手を武蔵と知ると「よ         もや武蔵様とは知らずどうぞ真っ平おゆるしの程を」と詑びるくだりを見て、私は「な         んで詑びる必要がありますか、はなはだ不愉快です」と手紙を出した。するとすぐに         返事がきて「しばらく御許しあれ」と人柄のにじみ出たような文面であった。以後、         亡くなるまで御交際いただいたのは光栄である。         刀匠が息を飲む瞬間         話が逸れてしまったが、私は結局終戦までに、堀井俊秀、笠間繁継師らに師事して種々         の教えを受ける一方、全国で百六十余名の刀匠を探し当て、秘伝書五十二種、鑑定書三         千種を読むことができた。         結論から云えば、これだけの刀匠と資料を集めても、遂に正宗の秘伝は解明されなかっ         たのである。         日本刀の原料である玉鋼は、炭素を多く含んでいるので、このままでは硬すぎて刀には         向かない。適当に炭素量を減らして軟らかにしておかないと、合戦の際に折れてしまう         のである。玉鋼を軟らかにするには、火の中で赤熱させて鎚で叩き、打ち伸ばしては二         つに折る作業を十五回位くり返して鍛錬し、炭素の含有量を減らせばよい。一貫五百位         の大鎚でこれを朝から晩まで二、三日間叩かせられると、ヘトヘトになる重労働である。         刀はよほど硬い鋼でできていると信じている人が多いが、事実は逆で、一番硬い鋼を使         うのがカミソリ、小刀、鉋、その次が庖丁、鋏、次が鋸、鉈となり、鉈よりも軟らかい         鋼、炭素合有量○・六〜○・七%のものを用いるのが刀である。         軟らかい鋼を使っているのに何故よく切れるかと疑問を持つ人もあろうが、日本刀の切         味が優秀だというのは世界の刀剣類の中で最も秀れていると云う意味であって、カミソ         リや庖丁の切味と比較しているのではない。鉈と同様、刀は本来満身の力でたたき切る         ものなのである。         どんな名刀でも、白分より硬いものは切れるものではない。石切梶原の石を切った話は、         衝撃で石が脆く割れただけのことである。         さて焼き上がった刀を水中に入れて冷却することを焼入れと称するが、この時の水の温         度、つまり所謂"湯加減"は、ほぼ人肌と云うことになっている。刀をこの水の中に突込         むと、水の沸騰する大きな音が仕事場にひびき、刀鍛冶が一瞬息を飲む。沸きかえる湯         の中から、切尖がグウット反り上がってくる。焼を入れる前は刀は真直ぐなもので、そ         れが、この焼入れによって刀特有の湾曲を自然に生ずるのである。         この際、刃先だけにしか焼を入れないために他の部分には特殊な土を塗って焼入れを防         ぐわけだが、この焼刃土は、粘土、炭の粉、砥石の粉から調合され、その分量と塗る紋         様は秘伝とされている。土の塗り方によって刀の表面に乱れ刃や直ぐ刃など美しい様々         な模様が浮かぶわけである。         焼入れの済んだ刀は、焼戻しといって、少し温めて粘り気を出し、一応荒研ぎをしてか         ら部分的に幅三、四寸を研き上げてみる。そして出来具合がよろしいとなれば初めて銘         を切って研ぎ師に渡す段取りになる。         ところで集めた数十種の秘伝書には、正宗がどうやって刀を造ったかを述べているもの         が多い。その方法を用いて実際に自分で刀を造ったり、あるいは他の刀匠に造ってみて         もらったりしたが、どうしても正宗とは雲泥の差がある。         日本刀は今述べたような方法で昔から造られてきたのだから、研究と実験によって正宗         に近い作品の一つぐらい現われてもよさそうなものだが、それが、ないのである。いや、         古く江戸から戦国、室町とたどってみても、正宗に比べるものは一振りもない。室町時         代の初期、応永年間を境にして刀の質がガクンと落ちている点を考え合わせると、正宗         の製法に関する本当の秘伝は、このあたりで完全に消滅してしまったのであろうか。         しかし、刀鍛冶は皆と云っていいほど、晩年の秘伝書の中に正宗の製法を発見したと書         き残している。そしてその作品は、正宗とははじめから比較にならないものだ。これは         一体どういうことなのだろうか?         やがて、不本意ながら、一つの結論が出た。刀匠は若い時から強烈な火の色を睨んで仕         事をしているから視力の衰えが早い。正宗を造りたいと念じ続けてきた老刀匠には、長         い間夢みてきた正宗と同じ刀が出来たという錯覚に陥ることはないだろうか。周囲の人         も彼をいたわって、その誤りを指摘はすまい。彼は、躍る胸をおさえながら「吾正宗の         製法を発見す」と秘伝書に書き残して莞爾として安らかに死んでいく。         刀の技術は、科学の進歩に逆比例して、平安時代から下降の一路をたどり、最新の科学         をもってすら、六百年前の刀の製法を解明できないのだ、と云うことが確認されたにす         ぎない、みじめな結果となった。         日本の伝統を誇る刀鍛冶の技術をもってすれば、ドイツ製の刃物も何のことやあらん、         と云う私の信念をもう一つぐらつかせた話がある。当時天皇のおヒゲを剃っていた大場         秀吉氏という理容師が、国産のカミソリでは陛下のおヒゲは剃れません、ドイツのカミ         ソリを使っています、と語ったので、私は刀鍛冶に造らせることにして全国から七人の         刀匠を選んで試作を依頼した。陛下のおヒゲを剃ると云うので、皆感激して造った。関         口佐太郎氏という馬喰町の理容師が、カミソリ試験の役をひきうけてくれたが、彼は折         角造らせたカミソリを再々に亘って全部はねてしまった。奥歯で噛んだような切味で、         とても御用は果たせない、と云うのである。         昭和十年から十七年に亘った実験である。日本刀の秘密を刃物に生かす私の二十年来の         意図は、ひとまず挫折と云うことになった。秘密は、遂に秘密だった。         我が恋人は"たまはがね"         ただ、日本刀の材料にされる玉鋼に着眼できたのは、最大の幸運であった。玉鋼これこ         そ世界最高の純枠な鋼なのだ。島根県の一隅で細々と続けられてきた原始的な製鋼法に         よる鋼がそれである。         鋼は、元来鉄と炭素が結合したものだが、リンや硫黄などの不純物が入って来る。鋼を         強くするためには、これらの不純物を取り除かねばならないが、ある程度以上は不可能         である。ところが出雲産の砂鉄は混り物が非常に少ない、世界でも珍しい原料なのだ。         集められた砂鉄は「たたら」という小型の炉、広さは畳一枚位、高さは三尺三寸ほどの         炉の中へ、樹齢二、三十年程度の松の幹を使った炭と共に投入加熱される。作業は三日         三晩のぶっつづけで行なわれ、やがて厚さ一尺あまりの玉鋼の塊が出来る。         普通は、高炉で鉱石から銑鉄を作り、それに屑鉄を混ぜて平炉で熔かして鋼にする間接         法を用いるのだがこの"たたら吹き"と称する製法は、鉱石から一挙に鋼を作る直接法と         して、世界的に稀なものである。         伝統的な旧式の炉であるため温度が上がらず不純物が鋼の中へと入らないこと、炉の土         や燃料の木炭の良質さが相俟って、ここに生まれた鋼は抜群の優秀性を持っている。分         析の結果不純物の少ない点で、玉鋼に匹敵するものは、まだ世界中に無い。         科学の進歩をもってすればどんな優秀な鋼でも生み出せると思ったら大きな誤りで、原         始的なたたら吹きと同じ品質を保証する製鋼法は未だ発見されていないのである。         戦争の末期、私は海軍から三条の刃物工場を大動員して十五万本の切りこみ用の軍刀を         作るよう、命令を受けていたが、敗戦と同時に刀はとり上げられるし、刀の製作は厳禁         されてしまった。失望落胆のあまり自殺した刀剣研ぎ師もいた。         残念なことに、この古来のたたら吹きも終戦によって日本刀の需要が絶えると同時に、         パッタリと止り、現在では廃絶の一歩手前迄きている。         話はとんだけれども、昭和二十年の私は手もとにあった玉鋼で再び最高の刃物を造る研         究に入ることにし、特にカミソリととりくむ決心をした。         カミソリは使い手の理容師が、切れる、切れぬの文句をつけるし、剃られるお客が下か         ら痛いの、ひりつくのと小言を云うので、刃物の中では最もむつかしいものとされてい         る。         最高のカミソリを造り出す方法は、すなわちすべての刃物の頂上へ通ずる道である。         加えて、世界の横綱クラスの刃物メーカーへ挑戦する次第にもなった。         材料をドィツやスウェーデンにもないすばらしい玉鋼と決めれば、あとは如何にしてこ         れにカミソリに適した硬さと粘りを与えるか、の問題である。私はすべてを忘れてこの         仕事に没頭した。終戦後のインフレを三条に帰った無収入の我が家は一体どうやって切         り抜けたのであろうか。なけなしの着物をそっと引き出しから抜いていく妻の後姿に目         をつぶりながら、私は炉を造ってはこわし、顕微鏡をのぞき続けた。         三条の町の人々も、あるとき返しの催促なしで、随分と資金をまわしてくれたが、それ         もまたたく間に費消してしまった。         昭和二十六年、遂に私は、玉鋼をカミソリの材料にする方法を発見した。だが、悲しむ         べし、私にはすでに一銭の金も残ってはいなかった。時あたかも、父の仇討ちの願をか         けてから三十年目、やっと締切りに間に合ったものの、資本金がなければ、手も足も出         ない。         私は出雲出身の小汀利得さんに資本金集めの相談を持ちかけてみた。氏の曰く、「玉鋼         のことを随筆に書いて文春に載れば、誰かひっかかるよ」と。         翌三十七年三月号に小汀さんの推薦で文春に載った随筆で、釣れも釣れたり、通産省を         釣り上げてしまったのだから有難い話だった。通産省からの研究補助金六十万円で、借         家の裏に、粗末ながら工場兼実験室を建てることができた。コークスや重油を使っては         せっかくの玉鋼が悪くなる。木炭なら良いが価格が高くなる。私は電熱を使うことにし、         クリプトール電気炉という小さな炉を作った。はじめて商品になる最高のカミソリが出         てきたのは、昭和二十九年十月であった。それは、ゾーリンゲン物の少なくとも一倍半         は優秀な製品を約束している。         この数年来、月産三十挺のぺースはくずされていない。一家が、食べるだけで一杯だが、         安物をせめてあと十年大量生産して金持になるよりは、たとえ貧乏していても本物を造         り出すのが信念だからである。         若いエネルギーと大勢の好意に支えられて、荒壁の小さな工場では、基礎研究、量産体         制の亀の歩むようにゆっくりとではあるが、着実に進んでいる。         目下の心配の種は、原料の玉鋼である。あと数年分のストツクはあるのだが、昭和二十         年でストツプしてしまった古来の方法を伝える人が絶えたら、それで万事は終わりであ         る。一回のたたら吹きで採れる玉鋼は約一トンだが、上質の炭五千貫を必要とするため、         一トンで百万円はかかる。科学的方法で製鋼すれば、最良鋼で三十三万円ぐらいだから、         その費用は大変なものである。厳密に云えば、玉鋼の約一割が四方白と呼ばれる特級品         で、これを使用するとすればトン当たり三百万円になり、これでは、我が家の財力では         如何ともなしがたい。         たたら吹きを復興し、世界最高の切味を持つ刃物を続々と輸出して世界市場でゾーリン         ゲン物と渡り合うには、私の財布は薄すぎるようだ。         しかし、ありがたいことに、貿易白由化でドイツのカミソリが滔々として流れ込んでく         る、舶来品崇拝の理容師は競ってこれを買い求める。私の製品はすでに三千挺ほどこの         業界に売り出されているから、自然両方を使い比べるチャンスが多くなった。         今迄は数十人くらいの人たちから玉鋼のほうが切れるという報告がきたにすぎない。         これからは、何百人、何千人の理容師さんから実験結果が知らされてくるだろう。         近代科学と握手した日本刀の秘伝がゾーリンゲンを追い払う日は遠くない。そうなれば         国内販路の拡大と共に、資金の後援もどこからかくるだろう。設備も人員も増していき、         いずれは近い将来、海外市場でドイツ品と一騎打ちをするようになるだろう。         そうなったら、事業は若い人たちに任せて、私はまた金にならない正宗再現の夢でも追         い続けたいのだが私はこの正月、満六十歳の誕生日を直腸癌手術後のベットで迎えた。         予後はかなり良い。せめて、あと十年と、どうも私はあきらめが悪い。もし私が死んだ         ら、子供たちがあとを引き継いでくれるだろうに。         (「文芸春秋」昭和三十八年三月特別号)を三条金物青年会が刊行した「刃物の見方」が  収録したものを転載しました。  最近の三条新聞に上記の記述に関係したものが載りましたので、次に転載します。別な立  場で、上記の吉川英治との関わりのところを補足していると思います。  岩崎は東京大学文学部、理学部を卒業して日本刀の研究に打ち込み、のちに故郷の三条に  戻り、三条製作所を設立。昭和二十七年にはドイツのゾーリンゲンの刃物に勝るタマハ  ガネレザーを完成させ、三条工業界の製品、技術向上に貢献した。  岩崎が神奈川県の逗子に住んでいた当時、朝日新聞に連載中の「宮本武蔵」を読んで、専  門家の立場から気づいた点があったため、知り合いの紹介で吉川に会い、日本刀につい  て話した。  その後、吉川から手紙が届いたが、そのあて名は「厨子野耕介先生」で、手紙には「この  意味は今に分かるから」という意味のことが書いてあった。数日後、連載中の「宮本武蔵」  に「研師・厨子野耕介」が登場し、そのときに話したことが「刀談義」という一章になっ  ていたという。(三条新聞13/4/16より)

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